にきたのか。」
 まだ涙のつたはつてゐる顏に、無遠慮に不機嫌な表情がうかんだ。
「ホら、あそこで、共同印刷で――」
 私は思はず「ああ」と聲をあげた。これはまた何といふことだ。私は本木研究家としての三谷氏だけを考へてゐたのだ。私はも一度聲をあげた。
「ああ、三谷君でしたか――」

      四

 三谷氏と私はしばらく顏を見合せてゐた。病人は細君に涙を拭いて貰ひながら、くるしい呼吸づかひだが、滿足氣であつた。
 大震災當時のことだから二十年ちかくもならうか。共同印刷會社の第一製版工場で、私も三谷氏も同じ植字工だつたのである。その當座、私は自分の屬してゐたポイント科の工場がつぶれてしまつて、他の植字工と一緒に第一工場へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]されてきたので、三谷氏がその工場ではすでに古參だつたかどうかは知らない。それに三谷氏は一緒になると半年くらゐでやめて他の會社へいつたので、とくに親しかつたといふわけでもないが、仕事臺がちやうどむかひあひになつてゐた。普通だと雙方のケース架の背でさへぎられてしまふのだが、大男の三谷氏はケース架の上に首だけでてゐた。いつも私は「オイ」と誰かが自分をよぶので、何氣なくあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐると、とんでもない頭の上から彼のながい顏がのぞいてゐて、びつくりさせられたりしてゐたことを憶ひだす。
 三谷氏がその頃から本木昌造の事蹟について研究してゐたかどうかは知らなかつた。私たちより一時代先輩の職工だつたが、職人氣質なところはあまりなくて、いつも肩を聳やかしてゐるやうな、何事にも一異説をたてねばをさまらぬといつたやうな、いつこくなところがあつて、職長も彼にだけは「三谷さん」と稱んでゐたのをおぼえてゐる。
 しかし二十年ぶりの邂逅はあわただしいものであつた。細君はどうせ助からぬ病人だからといつても、私は手首の時計が氣にかかつてならなかつた。H君はそばで偶然な出來事にボンヤリしてるやうだつたが、三谷氏は「きみ」と至極晴やかにH君へ云つた。
「手紙ありがたう。ぼくもどうせ永くない命だから、生きてるうち、何でも質問したまへ。」
「は」とH君が固くなるのに、三谷氏はカラカラとわらひかける。
「遠慮要らんよ、歴史とか、研究とかいふもんはネ、すべてそんなもんさ、ああ、やつと探しあてたら相手は死にかかつて
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