ゐるなンて、ぼくもそんなことを何度も經驗したよ、こんどは俺の番といふわけだ、なアにたいしたこつちやないさ。」
 三谷氏は胸の上にかざしてゐる右掌の指をふだんに動かしてゐる。神經質になにか探してゐるやうな、その火箸のやうに長ツぽそい指の、殊にまむしの頭みたいに平べつたくなつてゐる人差指は、活字のケツを永年つついてきた植字工の指であつた。最初はさすがに遠慮してゐたH君も、却つて病人に促されてベツドのそばに椅子を寄せて、緊張しながら自分の質問を訊いてゐた。
「本木の入獄が? いろいろ説があるが、つまり洋書の購入にからんで、他人のために罪におちたといふのが、一ばん妥當だネ。」
「他人といふのは、品川梅次郎のことですか?」
「さうさう――だがね、入獄といつてももつと研究してみる必要があるよ、年代的に繰つても入獄の期間中、本木はいろんな仕事をしてゐることが、事蹟で明らかになつてゐる。それは、おれの本木傳を讀んでくれればわかる――」
 昂奮のせゐか三谷氏は元氣さうだつたが、だんだん呼吸ぎれがはげしくなつた。狹いベツドの衝立の間に棒立ちになりながら、私はそんな會話もよく耳にはいらなかつた。他に訪ねてくる人もないので邪魔はなかつたが、三十分くらゐのつもりが疾つくに過ぎたので、私はH君を促した。すると三谷氏はまだ殘り惜しげに、例のほそながい指を振つてみせるのだつた。
「ぢや、あしたまたきてくれたまへ、ネ、君たちにやりたいものがあるから、あしたとり寄せとくから――」
 細君も廊下まで出てきて、病人と同じやうに、あしたきてくれと繰り返すのであつた。襷を弄くりながらオドオドした調子で、もう見込みのない夫のために、最後の願ひがたとひどんなことであつても、無條件に尊重したい細君のひたすらな氣持があらはれてゐた。そしてしまひの方は涙でかすれる聲で云ふのだつた。
「ちかごろ、うちがあんなに喜んだ顏をみるのは始めてでございます。――あたしにはよくわかりませんけれど、うちは若い頃からもう本木先生の研究ばかりだつたので、よつぽどうれしかつたんでございませう――」
 もちろんH君も私もまた明日訪ねる約束をして病院を出たが、再び澁谷驛でわかれるまでH君はあまり口をきかなかつた。三谷氏への想像があまりにちがつてゐたこともあるが、研究家などといふものの生涯が、どんなに華々しくはないものか、眼の邊りに見たからで、私
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