こちらでも見當がついた。
「こちらへお入んなさいと云へ。」
あふのいたまま二枚の名刺を支へてゐる痩せた手首はふるへてゐるのに、案外大きな聲であつた。
「大丈夫なんですか?」
廊下へ出てきた細君にH君がたづねてゐる。
「ええ、けふはどうしたんですかネ、とても元氣ですの。」
襷を弄くりながら、
「それにもう、どつちにしたつて同じだつて、お醫者さんも――」
と話しかけてゐるのに、ベツドからはかんしやう[#「かんしやう」に傍点]な大聲がつつぬけてくる。
「何をグヅグヅしとる、早く、はいんなさいと云はんか。」
ハイハイ、と細君はそつちへ答へておきながらも、見ず知らずの人間にも頼るやうなオロオロした聲の調子であつた。
「だからもう勝手にさしとくんですよ。ええ、あれで本人だつて、あきらめてはゐるやうですけれど――」
ベツドの傍へ近づくと臭氣が鼻を衝くやうだつた。ひろげた腹部はガーゼで蔽つてあつて、便はみんなその切開口から出るのださうである。三谷氏は痩せて萎びきつてゐるが、大男でベツドから兩足がハミでるくらゐ。さつきから名刺をもつたままの手をふるはせながら、首をこつちへ捻ぢむけて、顏だけでも起さうとする容子だつた。
「バカヤロ、枕をとるんだ。」
口ぎたなく罵りつける言葉まで激しい。そして泳ぐやうに手をふりながら、眼をH君の肩ごしに私の顏へまつすぐにそそいで、
「よくきてくれたなア。」
と云つた。吐き出すやうに言葉の尻はかすれながら、皺んだ眼尻にポタポタと涙がつたはつてゐる。
「ほんとによくきてくれた。」
さつきからの泳ぐやうな手ぶりは握手を求めてゐるのだと氣がついたので、慌てて私は應じたものの、すこしびつくりしてゐた。重態の病人だからはじめての人間にもこんなに昂奮するのかと思つたのである。
しかし三谷氏は握つた手をなかなかはなさないで、しげしげと私の顏を見入るのである。三谷氏はふとい鼻柱と、くせのある幅廣な唇許をもつてゐて、神經質でいつこく[#「いつこく」に傍点]な風貌があつた。
「しばらくだつたなア。」
呼吸をつぎつぎなつかしさうに云ふ。
「君も、年をとつたぢやないか、だいぶ白髮がある――」
ボンヤリな私も不審になつてきたが、この三谷氏と、どこで逢つたことがあるだらう? 困つてそれをたださうとすると、とたんに相手は手を離してしまつた。
「なんだ、君ア知らず
前へ
次へ
全156ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング