て妻縫との間に長男小太郎が生れて父となつたばかり。縫は養父昌左衞門の實子で、このとき十五歳であるから、隨分わかいお母さんであるが、とにかく昌造はまさにはたらき盛りであつた。
 そして江戸灣からペルリが去つてわづか一ヶ月、ニユースのはやい長崎でも、まだペルリの噂で持ち切りだつたらうと思はれる七月の十六日に、ここにも「黒船」があらはれた。第三囘目の遣日使節プーチヤチンの率ゐる蒸汽軍艦「パルラダ號」以下三隻である。江戸とちがつてここは異國船渡來の本場ではあつたが、このときのロシヤ遣日使節の渡來は、ペルリの來航につぐさわぎであつたといはれる。はたらき盛りの通詞である昌造は、いまや活字ばかりヒネくつてゐるわけにゆかなくなつた。そしてこのときの長崎談判以來、「日露修好條約」の成立した翌々年安政二年春まで、彼は殆んど家庭を顧みる暇もなかつたのであるが、考へてみると、彼の「植字判一式」が、日本の印刷歴史に記録を編んだのは、黒船來航といふ政治情勢の直接影響であつて、またそのゆゑに彼は活字をしばらく措いて、黒船のあとを逐ひ、東に西に驅け※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らねばならなかつたわけである。

      四

 ペルリや、プーチヤチンの來航當時、昌造などが、どれほどの外國知識をもつてゐたかも明らかでない。通詞であつたから、出島の和蘭人を通じて、ごく大まかな海外ニユースなどは、傳へきいてゐただらうが、その和蘭船も年に一度しか入つて來ないのだからたかが知れてゐる。學問的な知識となれば、初代庄太夫以來、家藏の書物も多かつたらうから、當時の日本人としては、最もひらけた方であつたらうが、それも蘭書に限られてゐた。またその蘭書でさへ自由ではなかつたし、蘭語以外の書物は嚴禁されてゐた。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、このとき「長崎談判」の日露國境協定について、日本側全權川路左衞門尉のために大通詞森山榮之助が長崎奉行所に押收してある英書を飜讀して北邊事情を紹介したが、隨員の阮甫がそれを川路にひそかにきいて、是非その英書を讀みたいと所望すると、川路は榮之助が可哀さうだから止めよと答へたと書いてある。つまりそれが他に洩れれば、榮之助は禁を犯した者として處罰されねばならぬからであつた。
「印刷文明史」は、明治時代まで傳つた本木家藏本を掲げてゐるが、たとへば「海上砲術書」「和蘭地理圖譜」「萬國
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