見は、幕閣のみならず當時の志ある人々の間にはひろがつてゐたやうである。「開國」といふ言葉も、當時の政治的場面でつかはれるときはなかなか面倒であつて、專門家でさへ容易には是非を論じがたいところだらうが、ごくひろい意味での「開國」ないし海外に對する關心は、相當つよかつたにちがひなく、それは前に述べたスパンベルグ以來百餘年に亙るかずかずの異國船渡來が與へた影響だけでも、相當つよいものとなつてゐたと思はれる。しかも「開國」の端緒が「黒船來航」といふ形ではじまつたことは、それ自體歴史的であるが、いづれにしろわが國にとつて一つの危機であり、複雜な波紋を與へる緊急重大事件であつた。
 このとき昌造はちやうど三十歳である。「蘭話通辯」を印刷した翌年、「活字版摺立係」を任命される二年前であつた。通詞といふ職掌からしても、「ペルリの來航」はかくべつのシヨツクを與へたにちがひないが、そのときの彼の感想なり、考へなりを判斷しうるやうな記録は、彼自身としては、何一つのこしてゐない。
「ペルリの來航」をべつにしていへば、三谷氏は、昌造を「開國論者」だと云つてゐる。「詳傳」のなかで「急激な、然も穩健な開國論者」だと書いてゐる。「本木昌造先生は、佐幕黨にはあらざるも、然し痛烈な開國論者であつたために、一時は鎖國論者の非常な的となられ、結局開國論者側からは――佐幕黨なりとの誤解を受け――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、それらの志士が頻りに出入して居たために、身の危險を慮り、京洛に上り、一時某公卿に身を寄せてゐられたこともある――。」この文章には長崎での云ひつたへをそのまま書いたやうなふしもあるが、「急激な、然も穩健な開國論者」といふのは面白い。昌造は尊皇、佐幕いづれの側からも誤解され、容れられなかつたらしい。これから彼の事蹟をみてゆくところだけれど、一と口にいへば、彼は「開國論をしない開國論者」であり、尊皇開國主義を一科學者としての半面だけで生きとほしたやうな人間だつたから、このときの感想も自から輪廓だけは想像できよう。
 通詞の階級としては、「小通詞過人」で、小通詞のうちで上席であつた。十五歳のとき稽古通詞となつて以來十五年、まづは順當の出世で、この頃までは養父昌左衞門が大通詞目付といふ、通詞のうちで最高の職にゐたから、殆んど世襲制の通詞として、彼の前途は約束されたものだつた。しかもこの年はじめ
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