圖譜」「和蘭海鏡書」「和蘭本草和解」「軍艦圖解考例」「和佛蘭對譯々林」などがあつて、昌造はこれらの家藏本に學んだらしい。寫眞でみるとこれらの書物は、和蘭印刷文字のかたはらに筆で和解したのや、全然和解して日本風の書物につくられたのや、墨をもつて描いた圖解の書物がある。蘭學もシーボルトが最初に渡來したときの數年や、時代によつてはやや自由な期間もあるが、そのぶりかへしの方が概して永かつたから、通詞といふ役柄でのこることの出來たかういふ書物は、なかなか値打あるものだつたらう。
昌造は幼時からそれらの家藏本に親しむことが出來た。明治四十五年、昌造贈位の御沙汰があつたとき、「印刷文明史」の著者は長崎に訪れて、まだ在世中の昌造の友人や門人などから知り得た昌造の青年時代をつぎのやうに書いてゐる。「――氏(昌造)は元服を加へたる時、家女と結婚し、間もなく家業の通詞職をも襲ぎしが、當時氏の眼中にはもはや渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた。この間氏は常に多くの諸書を渉獵して、專ら工藝百般の技術を研究し、殊に自己の修めた蘭學を通じて、泰西の文物を研究するに日も尚足らずといふ有樣であつた。――此頃に於ける我國の國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば、無暗と砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、――心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐた。
この文章はどのへんまでが「印刷文明史」の著者の見解であり、どのへんまでが昌造の友人及び門人の懷舊談であるか、はつきりしない。しかし昌造が「心私かに」開國必至を信じて、備へるためには彼らの文明をわがものとしなければならぬと考へてゐたこと、專ら工藝技術に興味をもつてゐたことが強調されてゐる。この昌造の工藝的な特徴は洋學年表も萬延元年の項に書いて「米魯初航以來、五ヶ國條約に至る其通辯の任に當りし者堀達之助、森山多吉郎、本木昌造也。堀は學力あり、蕃書調所教授、森山は才氣あり、外國通辯頭取、而して本木は巧智に富む、製鐵所取締、三人適所に伎倆を顯はせり」と云つてゐるが、とにかく以上でみたところ、昌造らの勉強にも拘らず、ペルリやプーチヤチン來航當時の外國知識といふものは、いろんな制約で、自から狹いものであつたらう。
ところがペルリやプーチヤチンの來航は、從來の通詞知識の限度を超える劃時代的なもの
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