大きな犬はすぐ眼をさました。ブルドックだか土佐犬だか、耳が小さく頬《ほ》っぺたのひろがったその犬は、最初ものうそうに眼をひらいたが、みるみるうちに鼻皺《はなじわ》を寄せて、あつい唇をまくれあがらせた。
「――こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋でございます」
 もうそのときは、叫ぶように、犬にむかって言った。怪しいもんではない、ということを知ってもらいたいために叫んだ。しかし犬にはわからなかった。う、う、と唸《うな》りながら起きあがると、毛を逆《さか》だてて、背中をふくらませて近寄ってきた。私が一《ひ》と足さがると二《ふ》た足寄ってくる。二《ふ》た足さがると三足《みあし》寄ってくる。私はもう声が出ない。重い桶《おけ》をになっているから自由もきかない。私が半分泣声になって叫ぶと、とたんに犬は肝《きも》をつぶすような吠《ほ》え声をあげて、猛然と跳びかかってきた。私は着物に咬みつかれたまま、うしろの菜園のなかに、こんにゃく桶ごとひっくりかえった。
「あら奥様、奥様、大変ですよう――」
 そのときになって勝手口からとびだしてきた女中さんが、苦もなく犬の首輪をつかんで引き離しながら、奥の方へむかって叫んでいるのであった。
「こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋がお菜園をメチャメチャにしてしまいましたわ」
 私もそれで気がついた。幸いこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶は水がこぼれただけだったが、私の尻餅ついたところや、桶のぶっつかったところは、ちょうど紫色の花をつけたばかりの茄子《なす》が、倒れたり千切《ちぎ》れたりしているのであった。
「なにさ、おやおや――」
 玄関の格子戸《こうしど》がけたたましくあいて、奥さんらしい女の人がいそいで出てきた。
「まあ、大変なことをしてくれたネ。こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋さん、これはうちの旦那さまが丹精していらッしゃるお菜園だよ、ホンとにまァ」
 奥さんは、私の足もとから千切《ちぎ》れた茄子《なす》の枝をひろいあげると、いたましそうにその紫色の花をながめている。私もほんとに申訳ないことをしたと思った。私も子供だけれど、百姓の子だから、茄子がこんなに花をつけるまでどんなに手数がかかるかを知っていた。
「どうもすみません」
 お辞儀しながら、私は犬の方を見た。しかし犬はもうけろりとして、女中さんの足許《あしもと》に脚をなげだして、ものうさそうにそっぽむいているのであった。
「犬が怖かったもんですから」
 そういうと、女中さんが、
「お前が逃げるからだよ、逃げなきゃ跳びつきなんかしやしない、ねえクマ、そうでしょ」
 犬の頭を撫《な》でながら、そう言ったので、いつかこれも騒ぎをききつけて、庭の方から廻ってきていた四五人の子供たちのうちからクスクスわらう声がきこえた。男の子も女の子もいるようだったが、私はますますはずかしくなって顔をあげられない。
「三本、五本と、ああ、これも折れてる――」
 奥さんは菜園のなかを、こごんで折れてしまった茄子をかぞえてあるきながら、
「ほんとに九本も、折っちまったじゃないか、折角《せっかく》旦那様が丹精なすってるのに」
「……………」
 私は何度も「すみません」とお辞儀したが、それより他に言葉もめっからないので、しまいには黙って頭を低《さ》げていた。泣きだしたくなるのを我慢して。
「すむもすまんもありゃしないよ。こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]なんか要《い》らないんだから、さっさとおかえり……」
 私は着物についた泥土をはらって、もう一度お辞儀した。すると、そのとき奥さんや女中さんのうしろで、並んでみていた子供のうちから誰れかが出てきて、
「オイ、徳永くん」
 と耳許《みみもと》で云った。おどろいて私が顔をあげると、それが同級生の林茂だった。彼は黙って私の桶《おけ》や天秤棒《てんびんぼう》をなおしてくれ、それからくるりと奥さんの方へむきなおると、
「小母《おば》さん、すみません」
 と云ってお辞儀した。林は口数の少ない子だから、それだけしか言わなかったが、それはあきらかに、私のために詫《わ》びてくれてるのだということが、誰にもわかった。
 それで、こんどはいくらかおどろいたような奥さんの声が訊《き》いた。
「おや、この子、茂さんのお友達?」
 私は林が何と答えてくれるだろうと思った。また犬の頭をなでている女中さんも、うしろにたってみている子供たちも、一緒に林の顔を見ていた。
「ええ」
 すると林は、それだけだが、非常にはっきりと、顔をあげて言ったのだった。私はその瞬間、一ぺんに身体《からだ》があつくなってきて、グーン、グーン、と空へのぼってゆく気がした。


   二

 林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子だった。ハワイで生れてハワイの小学校にあ
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