る。
しかし売れないときは、いつまで経《た》っても荷が減らない。もう夕方だから早く廻らないと、どこの家でも夕飯の仕度がすんでしまって間にあわなくなる。しきりに気はあせるが、天秤棒は肩にめりこみそうに痛いし、気持も重くなって足もはかどらない。しまいには涙がでてきて、桶ごとこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]も何もおっぽりだしたくなることもあった。
ねえ読者諸君! はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。
――こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、
ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところで、ふし[#「ふし」に傍点]をつけて平気で怒鳴れるようになるまでには、どんなに辛《つら》い思いをすることか。
私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめのうちは、往来のあとさきを見廻して、だれもいないのを見とどけてから、こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、と小さい声で、そッと呟《つぶ》やいたものだった。しかしだれもいないところでふれたって売れる道理はないのだから、やっぱりみんなの見ているところで怒鳴れるように修業しなければならない。
それからだんだん、ふれ声も平気で言えるようになり、天秤棒の重みで一度は赤く皮のむけた肩も、いつかタコみたいになって痛くなくなり、いつもこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]を買ってくれる家の奥さんや女中さんとも顔馴染《かおなじみ》になったりしていったが、たった一つだけが、いつまで経《た》っても、恥ずかしく辛《つら》かった。
それは往来で、同級生にぶっつかることだった。天秤棒をキシませながら、ふれ声をあげて、フト屋敷の角をまがると、私と同じ学帽をかぶった同級生たちが四五人、生垣《いけがき》のそばで、独楽《こま》などをまわして遊んでいるのがめっかる。するともう、私の足はすくんでしまって、いそいで逃げだそうと思うが、それより早く、
「あッ、徳永だ――」
と、だれかが叫ぶ。するとまた、
「ホントだ、あいつこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋なんだネ」
と、違った声がいう。私は勇気がくじけて、みんなまできいてることが出来ない。こんにゃくを売ることも忘れて、ドンドンいまきた道をあと戻りして逃げてしまう。
こんなとき、私が、
「ああおれはこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋だよ。それがどうしたんだい」
と言えればよかった。そしたら意地悪共も黙ってしまったにちがいない。ところが不可《いけ》ないことには私にその勇気がなかったので、もう二つの桶をあっちの石垣やこっちの塀かどにぶっつけながら逃げるので、うしろからは益々手をたたいてわらう声がきこえてくる……。
そんな風だから、学校へいってもひとりでこっそりと運動場の隅っこで遊んでいたし、友達もすくなかった。学問は好きだったから出来る方の組で、副級長などもやったことがあるが、何しろ欠席が多かったから、十分には勤まらない。先生はどの先生も私を可愛がってくれたし、欠席がつづくと私の家へ訪ねてきてくれたりした。しかし私には同級生の意地悪共が怖い。意地悪ではない同級生たちさえ意地悪に見えてきて、学問と先生を除けば、みんな怖かった。
ところが、あるときこんなことがあった。
もうすぐ夏になる頃の、天気のいい日曜日だった。私は朝からこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶をかついで、いつものように屋敷の多い住宅地を売ってあるいていたが、あるお邸《やしき》で、たいへんなしくじりをやってしまった。
そのお邸は石垣のうえにある高台の家で、十ばかりの石段をのぼらねばならぬ。石段をのぼると大きな黒い門があって、砂利をしいた道が玄関へつづいている。左の方はひろい芝生《しばふ》つづきの庭が見え、右の方は茄子《なす》とか、胡瓜《きゅうり》を植えた菜園に沿うて、小さい道がお勝手口へつづいている。もちろん私はお勝手口の方へその小さい菜園の茄子や胡瓜にこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶をぶっつけぬように注意しながらいったのであるが、気がつくと、お勝手口の入口へ、大きな犬がねているのであった。黒白|斑《まだ》らの、仔馬ほどもあるのが、地べたへなげだした二本の前脚に大きな頭をのっつけ、ながい舌をだしたまま眠っている。――
「今日は、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋でございます……」
私はそう言いたいのだが、うまく声が出ない。こいつが眼をさましたらどうしよう? しかし黙っていては女中さんは出てこぬし、こんにゃくは売れない。私は勇気をだして、犬の顔ばっかり見ながら、ふるえる声で――こんにちは――と言った。すると、果して
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