日の解剖では、多分、血液《ち》は鮮かな紅色で凝固る性質を失って居る上に、一番素人にも判るのは、肺の中に煤を吸い込んで居る[#「肺の中に煤を吸い込んで居る」に傍点]だろうと思います」
黙って聴いて居た署長は腹の中では、セセラ笑った。本草の通り代脉喋舌るなり[#「本草の通り代脉喋舌るなり」に傍点]、何がァ、本に書いてある通りに事実が出遇って呉れるなら世話は無い。第一、シャーロック・ホームズ見たいにお話をされるのが癪《しゃく》に障《さわ》って溜らぬ。
「確かに自宅で使用《つか》って居る手拭で頸を強く締めて深く喰い込んで居ても、未だ他殺で無いと言われますか」
確かに痛い所へ命中《こた》えたろうと見ると、検事は案外平気な顔で、
「私は、確かに自宅で使ってる手拭だ[#「自宅で使ってる手拭だ」に傍点]と判ってるので安心したのです。之が他家《よそ》のでは又別に考え直さなけりゃなりません。
あの手拭が頸に纏《まと》い就いてる有様《ようす》を巨細《よく》視て下さい。あの手拭は交叉して括っては無い[#「交叉して括っては無い」に傍点]。端からグルグル巻き付けた形になってます。活《い》きてる内は締まって居ず、死んでから締って来て、喰い込んで来たのです。換言《はやくい》えば軽く頸に巻きつけて置いた手拭は、其儘で、頸の方が火膨れに膨れて、容積《かさ》が増したから、手拭が深く喰い込んだのです。創国時《はじめ》のアメリカ人が蛮民だ、人道の敵だと目の敵にして、滅して了ったアメリカ印度人《インデアン》は、其実、平和の土着民で白人こそ、侵略的で人道の敵だったのと同じことです。
手拭は自宅の物で宜しい、咽ッ風邪で、咽喉が痛むから、有り合せの手拭を水で絞って、湿布繃帯をしたのでしょう」
「然しネ勝次郎が邪魔払いなり、保険金なりの為に絞め殺して、直に放火して、大急ぎで越前屋迄往って、何喰わぬ顔して居るとも考えられませんか」
「夫れは、考えは何《ど》の様にも出来るが、事実とシックリ合うか否かネ、次に時刻ということが大事の問題になりますネ」
此時焼跡から帰って来た巡査部長が白い布《きれ》の上に拡げた焼け残りのガラクタの中に、歪《ひず》んだ、吸入器の破片があった。
「想像ですが、喧嘩をして夫は飛出す。熱はある、咽はいたむ。湿布をまいて吸入をかけて居ながら色々思い廻して見ると口惜しく心細くなって来る。昔の癪、今のヒステリーの発作を起して痙攣ける。前後不覚でアルコールを蹴飛ばす。其内に燃え移った火や烟に責められて、初めて吾れに返って、逃げようとしたが、寒い晩で戸が閉じてあって出られずに、死んだとする。
吸入器から火事を出すことは随分多く、病院では殊《こと》に之れに注意を払う習慣だそうです。
要之《つまり》、火を出した時は当人は活きていて然も動けなかった[#「活きていて然も動けなかった」に傍点]のです。活きて居て初めから動ければ直に逃げる訳でしょう。ア、砂糖問屋の者を呼込んで下さい」
(六)
越前屋の二番番頭が始終の様子を知って居るというので出頭した。二十五六の小粋な男だ。
「ヘイ、今夜は勝次郎さんは何を置いても喜知太夫の三千歳は聞きに来る筈だ、気早なのに似合わず大分遅いと話してたら演芸放送に移ると間もなく来ました。最初は、吉住小三治の越後獅子でしたが、中途だったから挨拶もしませんし確な時刻は判りません」
今度は辰公が訊問された。初めは発見者だから定めし賞めて呉れるだろうと思ってたのに、警官が大分高飛車に出たので大に感情を害してプリプリして居た。
「君は烟の出る窓の中で、咆《うな》り声を聞いた相だが確かネ」
「人間だか猫だか判らないが、兎に角咆り声を二度迄は聞きました」
「初めて烟を見付けた時刻は何時何分だネ」
「時計を持って居無いんで……」
「時計が無くても判るだろうが」
「夫れァ貴官《あなた》無理ですぜ、火事を見付けて、時計を見てから怒鳴るなんて、其様|箆棒《べらぼう》な話ァありゃしません。働いてから、紙屋さんの時計を見たら九時過でしたヨ。別な話だけれど震災の時だって、十一時五十八分テ事ァ後で、止った時計を見たり、人に聞いたりしたので、一人だってグラグラッ、ハハア五十八分かなんて奴は無かったでしょう。仮令《よしや》時計を見たって三十分も四十分も違ってるのが沢山《ザラ》だから駄目ですヨ」
「宜しい。井澤さん、此男の言う通り実際我国では、時刻の判然《はっきり》しないのには困りますネ、西洋では五分の違いで有罪と無罪と分れたという実例もありますが、左様は我国では参りませんネ、曾《まえ》に一高の教授が、曙町の自宅から学校迄の間の人家の時計を、二百六十とか覗いて見たが、正確な時刻を示してるのが、五ツだった、其上学校の時計台の時計が、正に二分遅れて居た相だ。口の
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