越後獅子
羽志主水
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)些《すこ》しは
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当節|流行《はやり》
[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
(例)其屍体の[#「其屍体の」に傍点]
−−
(一)
春も三月と言えば、些《すこ》しは、ポカついて来ても好いのに、此二三日の寒気《さむさ》は如何だ。今日も、午後《ひるすぎ》の薄陽の射してる内から、西北の空ッ風が、砂ッ埃を捲いて来ては、人の袖口や襟首《えりくび》から、会釈《えしゃく》も無く潜り込む。夕方からは、一層冷えて来て、人通りも、恐しく少い。
三四日前の、桜花でも咲き出しそうな陽気が、嘘の様だ。
辰公《たつこう》の商売は、アナ屋だ。当節|流行《はやり》の鉄筋コンクリートに、孔を明けたり、角稜《かど》を欠いたりする職工の、夫も下ッ端だ。商売道具の小物を容れた、ズックの嚢《ふくろ》を肩に掛けて、紐は、左の手頸に絡んで其手先は綿交り毛糸編の、鼠色セーターの衣嚢《かくし》へ、深く突込んで、出来る丈、背中を丸くして、此寒風の中を帰って来た。
去年の十一月に、故国の越後を飛出す時に買った、此セーターが、今では何よりの防寒具だ。生来の倹約家《しまつや》だが、実際、僅の手間では、食って行くのが、関の山で、稀《たま》に活動か寄席へ出かけるより外、娯楽《たのしみ》は享《と》れ無い。
夕飯は、食堂で済した。銭湯には往って来た。が扨《さて》、中日の十四日の勘定前だから、小遣銭が、迚《とて》も逼迫《ひっぱく》で、活動へも行かれぬ。斯様《こん》な時には、辰公は常《いつ》も、通りのラジオ屋の前へ、演芸放送の立聴きと出掛ける。之が一等|支出《めり》が立た無くて好いのだが、只此風に、耐《こた》える。煎餅屋の招牌《かんばん》の蔭だと、大分|凌《しの》げる。少し早目に出掛けよう。
隣りの婆さん、此寒さに当てられて、間断《ひっきり》無しに咳き込むのが、壁越しに聞える。今朝の話では、筋向うの、嬰児《あかんぼ》も、気管支で、今日中は持つまいと云う事だ。何しろ悪い陽気だ。
(二)
佳い塩梅に、覘《ねら》って来た招牌の蔭に、立籠って、辰公は、ラジオを享楽して居る。
「講座」は閉口《あやま》る。利益《ため》には成るのだろうが、七六《しちむ》ツかしくて、聞くのに草臥《くたび》れる。其処へ行くと、「ニュース」は素敵だ。何しろ新材料《はやみみ》と云う所《とこ》で、近所の年寄や仲間に話して聞かせると辰公は物識《ものし》りだと尊《た》てられる。迚も重宝《ちょうほう》な物だが、生憎《あいにく》、今夜は余り材料《たね》が無い。矢ッ張り寒い所為で、世間一統、亀手《かじか》んで居るんだナと思う。今夜は後席に、重友《しげとも》の神崎與五郎《かんざきよごろう》の一席、之で埋合せがつくから好い……
と、ヒョイッと見ると向側の足袋屋《たびや》の露地の奥から、変なものが、ムクムクと昂《あが》る。アッ、烟《けむ》だ。火事だッと感じたから「火事らしいぞッ」と、後に声を残して、一足飛に往来を突切り、足袋屋の露地へ飛込んだ。烟い烟い。
右側の長屋の三軒目、出窓の格子から、ドス黒い烟が猛烈に吹き出してる。家の内から、何か咆《うな》る如《よう》な声がした。
火事だアッと怒鳴るか、怒鳴らぬに、蜂の巣を突ついた様な騒ぎで、近所合壁は一瞬時に、修羅の巷《ちまた》と化して了《しま》った。
悲鳴、叱呼《しっこ》、絶叫、怒罵と、衝突、破砕《はさい》、弾ける響、災の吼《うな》る音。有《あら》ゆる騒音の佃煮《つくだに》。
所謂《いわゆる》バラック建ての仮普請《かりぶしん》が、如何《いか》に火の廻りが早いものか、一寸《ちょっと》想像がつかぬ。統計によると、一戸平均一分間位だ相な。元来《もともと》、木ッ端細工で、好個《いい》焚付けになる上に、屋根が生子板で、火が上へ抜けぬので、横へ横へと匍うからだろう。
小火《ぼや》で済めば、発見者として、辰公の鼻も高かったのに、生憎、統々本物になった許《ばか》りに、彼にとっても、迷惑な事になって了った。
(三)
三軒長屋を四棟焼いて、鎮火は仕たが、椿事《ちんじ》突発で、騒は深刻になって来た。
辰公の見たのが、右側の三軒目で、其処には勝次郎《かつじろう》と云う料理職人の夫婦が、小一年棲んで居る。火が出ると、間も無く近所に居たと云う、亭主の勝次郎は、駆けつけて来たが、細君《かみさん》のお時の姿が見えない。ことに依ると焼け死にはせぬかと、警察署の命令で、未だ鎮火《しめ》りも切らぬ灰燼《はい》を掻《か》いて行くと、恰度、六畳の居間と勝手の境目に当る所に、俯向《うつむ》けに成った、女の身体が半焦げに焼けて出て来
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
羽志 主水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング