ヌつさり掛けることも?
彼等の部屋を出てゆく時に、お休みなさいを云ひながら、
その晨方《あさがた》が寒いだらうと、気の付かなかつたことでせうか、
戸締《とじ》めをしつかりすることさへも、うつかりしてゐたのでせうか?
――母の夢、それは微温の毛氈《(まうせん)》です、
柔らかい塒《ねぐら》です、其処に子供等小さくなつて、
枝に揺られる小鳥のやうに、
ほのかなねむりを眠ります!
今此の部屋は、羽なく熱なき塒《ねぐら》です。
二人の子供は寒さに慄へ、眠りもしないで怖れにわななき、
これではまるで北風が吹き込むための塒《ねぐら》です……

     ※[#ローマ数字3、1−13−23]

諸君は既にお分りでせう、此の子等には母親はありません。
養母《そだておや》さへない上に、父は他国にゐるのです!……
そこで婆やがこの子等の、面倒はみてゐるのです。
つまり凍つた此の家に住んでゐるのは彼等だけ……
今やこれらの幼い孤児が、嬉しい記憶を彼等の胸に
徐々に徐々にと繰り展《ひろ》げます、
恰度お祈りする時に、念珠《(じゆず)》を爪繰るやうにして。
あゝ! お年玉、貰へる朝の、なんと嬉しいことでせう。
明日《あした》は何を貰へることかと、眠れるどころの騒ぎでない。
わくわくしながら玩具《おもちや》を想ひ、
金紙包《きんがみづつ》みのボンボン想ひ、キラキラきらめく宝石類は、
しやなりしやなりと渦巻き踊り、
やがて見えなくなるかとみれば、またもやそれは現れてくる。
さて朝が来て目が覚める、直ぐさま元気で跳《は》ね起きる。
目を擦《こす》つてゐる暇もなく、口には唾《つばき》が湧くのです、
さて走つてゆく、頭はもぢやもぢや、
目玉はキヨロキヨロ、嬉しいのだもの、
小さな跣足《はだし》で床板踏んで、
両親の部屋の戸口に来ると、そをつとそをつと扉に触れる、
さて這入ります、それからそこで、御辞儀……寝巻のまんま、
接唇《ベーゼ》は頻《しき》つて繰返される、もう当然の躁ぎ方です!

     ※[#「IIII」、148−1]

あゝ! 楽しかつたことであつた、何べん思ひ出されることか……
――変り果てたる此の家《や》の有様《さま》よ!
太い薪は炉格《シユミネ》の中で、かつかかつかと燃えてゐたつけ。
家中明るい灯火は明《あか》り、
それは洩れ出て外《そと》まで明るく、
机や椅子につやつやひかり、
鍵のしてない大きな戸棚、鍵のしてない黒い戸棚を
子供はたびたび眺めたことです、
鍵がないとはほんとに不思議! そこで子供は夢みるのでした、
戸棚の中の神秘の数々、
聞こえるやうです、鍵穴からは、
遠いい幽《(かす)》かな嬉しい囁き……
――両親の部屋は今日ではひつそり!
ドアの下から光も漏れぬ。
両親はゐぬ、家よ、鍵よ、
接唇《ベーゼ》も言葉も呉れないまゝで、去《い》つてしまつた!
なんとつまらぬ今年の正月!
ジツと案じてゐるうち涙は、
青い大きい目に浮かみます、
彼等呟く、『何時母さんは帰つて来《(くる)》ンだい?』

     ※[#ローマ数字5、1−13−25]

今、二人は悲しげに、眠つてをります。
それを見たらば、眠りながらも泣いてると諸君は云はれることでせう、
そんなに彼等の目は腫れてその息遣ひは苦しげです。
ほんに子供といふものは感じやすいものなのです!……
だが揺籃を見舞ふ天使は彼等の涙を拭ひに来ます。
そして彼等の苦しい眠に嬉しい夢を授けます。
その夢は面白いので半ば開いた彼等の唇《くち》は
やがて微笑み、何か呟くやうに見えます。
彼等はぽちやぽちやした腕に体重《おもみ》を凭《もた》せ、
やさしい目覚めの身振りして、頭を擡《もた》げる夢をばみます。
そして、ぼんやりした目してあたりをずつと眺めます。
彼等は薔薇の色をした楽園にゐると思ひます……
パツと明るい竃《(かまど)》には薪がかつかと燃えてます、
窓からは、青い空さへ見えてます。
大地は輝き、光は夢中になつてます、
半枯《はんかれ》の野面《のも》は蘇生の嬉しさに、
陽射しに身をばまかせてゐます、
さても彼等のあの家が、今では総体《いつたい》に心地よく、
古い着物ももはやそこらに散らばつてゐず、
北風も扉の隙からもう吹込みはしませんでした。
仙女でも見舞つてくれたことでせう!……
―二人の子供は、夢中になつて、叫んだものです…おや其処に、
母さんの寝床の傍に明るい明るい陽を浴びて、
ほら其処に、毛氈《タピー》の上に、何かキラキラ光つてゐる。
それらみんな大きいメタル、銀や黒のや白いのや、
チラチラ耀《(かがや)》く黒玉や、真珠母や、
小さな黒い額縁や、玻璃《(はり)》の王冠、
みれば金字が彫り付けてある、『我等が母に!』と。
[#地付き]〔千八百六十九年末つ方〕
[#改ページ]

 太陽と肉体


太陽、この愛と生命の家郷は、
嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。
我等谷間に寝そべつてゐる時に、
大地は血を湧き肉を躍らす、
その大いな胸が人に激昂させられるのは
神が愛によつて、女が肉によつて激昂させられる如くで、
又大量の樹液や光、
凡ゆる胚種を包蔵してゐる。

一切成長、一切増進!

          おゝ美神《※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニュス》、おゝ女神!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神《サチール》たちを。
獣的な|田野の神々《フォーヌ》を私は追惜します、
愛の小枝の樹皮をば齧《(かじ)》り、
金髪ニンフを埃及蓮《はす》の中にて、接唇しました彼等です。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮《ちしほ》が仄紅《ほのくれなゐ》に
牧羊神《パン》の血潮と交《まざ》り循《めぐ》つた、かの頃を私は追惜します。
当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、
牧羊神が葦笛とれば、空のもと
愛の頌歌《(しようか)》はほがらかに鳴渡つたものでした、
野に立つて彼は、その笛に答へる天地の
声々をきいてゐました。
黙《もだ》せる樹々も歌ふ小鳥に接唇《くちづけ》し、
大地は人に接唇し、海といふ海
生物といふ生物が神のごと、情けに篤いことでした。
壮観な市々《まちまち》の中を、青銅の車に乗つて
見上げるやうに美しかつたかのシベールが、
走り廻つてゐたといふ時代を私は追惜します。
乳房ゆたかなその胸は※[#「景+頁」、第3水準1−94−5]気《(かうき)》の中に
不死の命の霊液をそゝいでゐました。
『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、
子供のやうに、膝にあがつて。
だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。

なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、
そして、眼《め》をつぶり、耳を塞《(ふさ)》いで歩くのです。
それでゐて『人の子』が今では王であり、
『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!
おゝ! 神々と男達との大いなる母、シベールよ!
そなたの乳房をもしも男が、今でも吸ふのであつたなら!
昔|青波《せいは》の限りなき光のさ中に顕れ給ひ
浪かをる御神体、泡降りかゝる
紅《とき》の臍《ほぞ》をば示現し給ひ、
森に鶯、男の心に、愛を歌はせ給ひたる
大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神
アスタルテ、今も此の世におはしなば!

     ※[#ローマ数字2、1−13−22]

私は御身を信じます、聖なる母よ、
海のアフロヂテよ!――他の神がその十字架に
我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと!
肉、大理石、花、※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニュス、私は御身を信じます!
さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇つた木偶《でく》といぢけさせました!
それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!
そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、
その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にやなれぬ!
――奇妙な話! かくて世界は偉大な※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニュスの
優しく聖なる御名《みな》に於て、ひややかに笑つてゐる。

     ※[#ローマ数字3、1−13−23]

もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!……
だつて『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終つた。
かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像|壊《こぼ》つことにも疲れ、
彼は復活するでもあらう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであらう。
理想、砕くすべなき永遠の思想、
かの肉体《にく》に棲む神性は
昇現し、額の下にて燃えるであらう。
そして、凡ゆる地域を探索する、彼を御身が見るだらう時、
諸々の古き軛《(くびき)》の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、
御身は彼に聖・贖罪《(しよくざい)》を給ふでせう。
海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、
微笑みつゝは無限の『愛』を、
世界の上に投ぜんと光臨されることでせう。
世界は顫へることでせう、巨大な竪琴さながらに
かぐはしき、巨《おほ》いな愛撫にぞくぞくしながら……

――世界は『愛』に渇《かつ》ゑてゐます。御身よそれをお鎮め下さい、
おゝ肉体のみごとさよ! おゝ素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明《よあけ》の凱旋
神々も、英雄達も身を屈め、
エロスや真白のカリピイジュ
薔薇の吹雪にまよひつゝ
足の下《もと》なる花々や、女達をば摘むでせう!

     ※[#「IIII」、158−1]

おゝ偉大なるアリアドネ、おまへはおまへの悲しみを
海に投げ棄てたのだつた、テエゼの船が
陽に燦いて、去つてゆくのを眺めつつ、
おゝ貞順なおまへであつた、闇が傷めたおまへであつた、
黒い葡萄で縁取つた、金の車でリジアスが、
驃※[#「馬+干」、158−7]《(へうかん)》な虎や褐色の豹に牽かせてフリジアの
野をあちこちとさまよつて、青い流に沿ひながら
進んでゆけば仄暗い波も恥ぢ入るけはひです。
牡牛ゼウスはイウロペの裸かの身をば頸にのせ、
軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気《さむけ》する
ゼウスの丈夫なその頸《くび》に、白い腕《かひな》をイウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波《ながしめ》を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼《まなこ》を閉ぢて、彼女は死にます
神聖な接唇《ベエゼ》の只中に、波は音をば立ててます
その金色の泡沫《しはぶき》は、彼女の髪毛に花となる。
夾竹桃と饒舌《おしやべり》な白蓮の間《あはひ》をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、大変|恋々《れんれん》してゐます、
その真つ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、
さて※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニュス様のお通りです、
めづらかな腰の丸みよ、反身《そりみ》になつて
幅広の胸に黄金《こがね》をはれがましくも、
雪かと白いそのお腹《なか》には、まつ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この調練師《ならして》は誇りかに、
獅《(しし)》の毛皮をゆたらかな五体に締めて、
恐《こは》いうちにも優しい顔して、地平の方《かた》へと進みゆく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立つて夢みる裸身のもの
丈長髪も金に染み蒼ざめ重き波をなす
これぞ御存じアリアドネ、沈黙《しじま》の空を眺めゐる……
苔も閃めく林間の空地《あきち》の中の其処にして、
肌も真白のセレネエは面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《かつぎ》なびくにまかせつつ、
エンデミオンの足許に、怖づ怖づとして、
蒼白い月の光のその中で一寸|接唇《くちづけ》するのです……
泉は遐《(とほ)》くで泣いてます うつとり和《なご》んで泣いてます……
甕《(かめ)》に肘をば突きまし
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