完成していないか。
 ショパンのタッチが柔かで綺麗だったと伝説には謳われている。しかしイグチのタッチは柔かで綺麗でないか。イグチで悪いなら――パデレウスキーでもいい。コルトーでもいい。ショパン以後百年も技巧ばかり磨いて来た今の時代のピアノ演奏家が、まさかショパンほどもピアノが弾けないとは思われない。そして曲が同じなら、誰が弾いたところで、結局同じ事である。もし個人特有なタッチの技巧というものがないならば、あとは僅に曲の速度や、強弱の変化や、音の均合などが個人的な特徴になって来るだけである。
 そんな僅な事はどうでもいい事ではないか。同じ曲を少し速く弾こうが、遅く弾こうが、そんな事が私共に一体何の芸術的な意味を持つか。ショパンやリストの世にも美しい作曲は、僅ばかり速く弾かれようが、強く弾かれようが、そんな取るにも足らぬ小さい事ぐらいで、毫もその価値は変らない。特にその速さも、強さも、均合も、みな先生の真似事だとなったら、私にはますますそんな馬鹿々々しい事に係り合おうという気は起らなくなる。私はいい音のするピアノがあればいい。ショパンやリストの全集があればいい。弾くのはイグチ一人で十分であ
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