、今までのような荒唐無稽なタッチなどいう事はとくの昔になくなっていいはずである。
ピアノ演奏家に許される事は、ただ楽譜の不備を実際的に補う事だけである。楽譜が音楽を記述する方法は、音の高さを除いては全然非数量的である。ただ大体「|速く《アレグロ》」とか「|遅く《アダジオ》」とか、「|強く《フォルテ》」とか「|弱く《ピアノ》」とか言うだけである。どのくらい速くか、どのくらい強くか、数量的には書かれない。楽譜はちょうど寸法の書いてない洋服の註文書のようなものである。その寸法を自分の考えで入れて、実際洋服に仕立てるだけがピアノの演奏家の仕事である。その寸法に多少の独創があると言えばあるくらいのものである。もし楽譜が改良されて、作曲家の考えを数量的に書くようになれば、ピアノの演奏家には全く独創という事はなくなる。全く機械と同じものになる。
そして今のピアノの稽古は、表情を習うのが高級な稽古だと言って、弟子は主としてその肝心な寸法を先生に習い、その通りを一生懸命模倣しようとする。それでは全然機械である。全然芸術の独創というようなものはない。
これが私の見たピアノの音楽である。私はピアノの演
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