の音でさえタッチの区別の出来ないのに、どうしてあれほど複雑な曲でタッチの変化が耳にわかるか。そしてわからないものをわからないと言うのが、何故批評家の恥になるか。わからないものを正しくわからないという方がかえって批評家の権威でないか。
また私共聴衆は何故に、名人のタッチなどいう曖昧至極なものに感心したような顔をしなくてはならぬのであろうか。それは半分は英雄崇拝の感情を、仮に「美しいタッチ」という言葉で言い表しただけのものであろう。英雄崇拝の感じはどうもやむをえないものとすれば、それを言い表す美しいタッチという言葉が間違っている。音楽にあまり経験のない人は、どうしても演奏家を目で見て楽しもうとする。何かの理由で偶然その演奏家が世間的に有名な人だとしたら、それに英雄崇拝の感じが混ってくる。目がある以上は目で演奏家の姿を見てそれを楽しんでも悪くはあるまい。ただ演奏家の手つきが、ぐにゃぐにゃとして、さも柔かそうに動くから、そのピアノからも柔かそうな音が出るだろうと思うのは、それがそもそも迷信のはじまりである。
ピアノは結局音を聞く楽器である。私共が本気になってピアノの音だけを聞くとしたならば
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