藪蔭に淋しく咲き残ったあわれな草花のようなこの平民の声を保存することと、今当分亡びる事のない三味線をさらに保護する事と、一体どちらが国家の仕事として急務でしょうか。
 諸君は今流行のオーシマに行ったでしょう。ミハラ山の途中の茶屋では島のアンコが『大島節』を唄っています。その『大島節』にはまだ相当長い命はあるでしょう。しかし諸君がもし海岸の或る村に行くならば、そこに『七人様の唄』や『泣き節』などいうような物悲しい唄がある事を知るでしょう。それは唄う人も少いし、今その唄う人が死ねば私共は永久にこの民謡を聞く事は出来なくなります。『七人様の唄』にはもちろん興行価値はありません。老人諸君の宴会の席や待合の奥で唄うのには適しません。しかしそのためにこのニッポンで生れた素朴な平民の声をむざむざ亡ぼしていいものでしょうか。今保護者が沢山いる三味線を更に保護する事と、この哀れな孤立無援の民謡を保存することと、どちらがもっと愛国的な仕事でしょうか。ニッポンの音楽に対しては、どうせ保存ということより外には意義はないとするならば、まず保存されなければならない物が何であるかを、今十分に研究していい時ではないで
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