質を考えると、いろいろの点で大変興味があります。しかしそれを私共の生きた音楽の主な楽器としてみれば、極端に物足らない所があります。詳しくいうまでもなく、それは一種の原始楽器に過ぎません。今の私共は三味線ぐらいの事では満足しておられません。それどころでなく、西洋の管絃楽の楽器、ジャズの楽器の全体でも、まだ私共の心は満足しきったとはいえません。私共はまだまだ遥に多くの物を要求しています。今の私共さえ満足しない三味線が、将来ニッポンで作り上げられる理想的な音楽の主な要素になろうなどとは私には到底想像にも及ばない事です。そして今の若い人々が何の目的でこんなものを習いに学校に行かなければならないでしょうか。
 ニッポンの音楽はするだけの事をしてしまいました。それは徳川時代の青年にとっては非常な感激を呼んだものでしょう。正に音楽教育の基礎になったものでしょう。しかし、今は徳川時代ではありません。その音楽も過去の名曲として長く保存されるだけのものです。私は『越後獅子』や『松の緑』は名曲だと思います。しかしそれは過去の名曲だというだけです。そして今の若い人の貴重な命をそんなものの練習に浪費させる事が、
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