る事を言わずに置くのが好いかも知れないのです。
しかし何と云われたって、云われついでだから云いましょう。私は田山君のように旨《うま》くないと云われても、実際どうでもない。田山君も、正宗君も、島崎君も私より旨くて一向|差支《さしつかえ》がないように感じています。それは私の方が旨くても困りはしません。しかしまずくても構いません。ちっとも不平が無い。諸君と私とを一しょに集めて、小学校のクラスの座順のように並ばせて、私に下座に座ってお辞儀をしろと云うことなら、私は平気でお辞儀をするでしょう。そしてそれは批評家の嫌う石田少介流とかの、何でもじいっと堪えているなんぞと云うのではありません。本当に平気なのです。
私の考では私は私で、自分の気に入った事を自分の勝手にしているのです。それで気が済んでいるのです。人の上座に据えられたって困りもしないが、下座に据えられたって困りもしません。
こう云う心持は愚痴とか厭味とか云う詞《ことば》の概念とは大へんに違っていると信じています。いつか私は西洋にある詞で、日本に無い詞がある、随《したが》ってそういう概念があちらにあって、こちらに無いと云うような事を話し
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