た事がありました。縦令《たとい》両方にその詞はあってもそれが向うでは日常使われているのに、こちらでは使われていないという関係もあるのです。これは確に思想の貧弱な徴候だろうと思うのです。
批評壇が、時を得ていない人は、時を得ている人に対してきっと不平を懐いていて、そんな人の云うことは、厭味、愚痴の外にないように思うのは、批評家の思想の貧弱ではあるまいかと思うのです。
私の心持を何という詞で言いあらわしたら好いかと云うと、resignation だと云って宜しいようです。私は文芸ばかりでは無い。世の中のどの方面においてもこの心持でいる。それで余所《よそ》の人が、私の事をさぞ苦痛をしているだろうと思っている時に、私は存外平気でいるのです。勿論 resignation の状態と云うものは意気地のないものかも知れない。その辺は私の方で別に弁解しようとも思いません。
こんな事を言っていると、お尋ねに対しては何も言わないで、身勝手ばかり云っているようですが、先ず立場から極めて掛らなくては、何も出来ないのです。しかしこの立場はやはり一般に認めて貰《もら》う事は出来ないでしょう。私のこれまでの経験
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