。己もそこへ胡座《あぐら》を掻《か》いて里芋の選分《よりわけ》を遣っ附けた。ところが己はちびでも江戸子だ。こんな事は朝飯前だ。外《ほか》の餓鬼が笊《ざる》に一ぱい遣るうちに、己は二はい遣るのだ。百姓|奴《め》びっくりしやぁがった。そして言草《いいぐさ》が好いや。里芋の選分《えりわけ》は江戸の坊様に限ると抜かしやぁがる。」
「そのうち、もう江戸へ帰っても好さそうだというので、お袋と一しょに帰って来た。兄きは今の戸山学校の処に押し籠《こ》められていたものだ。お袋は早く兄きが内へ帰られるようにというので、小さい不動様の掛物を柱に掛けて、その前へ線香を立てて、朝から晩まで拝んでいた。」
「そこへ兄きがひょっこり帰って来た。お袋が馬鹿に喜んで、こうして毎日拝んだ甲斐《かい》があると云って不動様の掛物の方へ指ざしをしたのだ。そうすると、兄きは妙な奴さ。ふうん、おっ母さんはこんな物を拝んだのですかと云って、ついと立って掛物の前に行って、香炉に立ててある線香を引っこ抜くのだ。己はどうするかと思って見ていたよ。そうすると、兄きは線香の燃えている尖《さき》を不動様の目の所に追っ附けて焼き抜きゃがるのだ。片っ方が焼穴になったら、また片っ方へ押っ附けて焼き抜きゃあがるのだ。とうとう両方共焼穴にしてしまやぁがった。」
「兄きは妙な奴だったよ。それ何とか云ったっけ。うん、田口|卯吉《うきち》というのだ。あれなんぞが友達だったのだ。旧思想の破壊というような事に、恐ろしく力瘤《ちからこぶ》を入れていたのだな。不動様の罰だか、親の罰だか、知らねえが、間もなく病気になって死んじまやぁがった。」
「まあ言って見れば、Fanatiker《ファナチィケル》 というような人間だったのだな。古くなったがらくたを取り片附けなけりゃあならない時代には、あんな焼けな人間も道具かも知れない。兄きなんぞも、廻《めぐ》り合せでは大きい為事《しごと》をしたのかも知れねえんだよ。」
「己なんぞも西洋の学問をした。でも己は不動の目玉は焼かねえ。ぽつぽつ遣って行くのだ。里芋を選《よ》り分けるような工合に遣って行くのだ。兄きなんぞの前へ里芋の泥だらけな奴なんぞを出そうもんなら、かます籠《かご》め百姓の面《つら》へ敲《たた》き附けちまうだろうよ。」
「己は化学者になって好かったよ。化学なんという奴は丁度己の性分に合っているよ。酸素や水
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