んぞも苦労をしたが、内の親父も苦労をしたもんだ。同じ苦労をしても、勝は靱《しわ》い命を持っていやぁがるから生きていた。親父はこっくり行き着いたのだ。病気も何もないのに死んだのだ。兄きは大鳥|圭介《けいすけ》に附いて行っちまう。お袋と己とは広徳寺前の屋敷にぼんやりしていると、上野の戦争が始まった。門番で米擣《こめつき》をしていた爺いが己を負《お》ぶって、お袋が系図だとか何だとかいうようなものを風炉敷《ふろしき》に包んだのを持って、逃げ出した。落人《おちうど》というのだな。秩父在《ちちぶざい》に昔から己の内に縁故のある大百姓がいるから、そこへ逃げて行こうというのだ。爺《じ》いの背中で、上野の焼けるのを見返り見返りして、田圃道《たんぼみち》を逃げたのだ。秩父在では己達を歓迎したものだ。己の事を江戸の坊様と云っていた。」
「なんでも江戸の坊様に御馳走をしなくちゃあならないというので、蕎麦《そば》に鳩《はと》を入れて食わしてくれたっけ。鴨南蛮《かもなんばん》というのはあるが、鳩南蛮はあれっきり食った事がねえ。」
「そうしていると打毀《ぶっこわし》という奴が来やがった。浪人ものというような奴だ。大勢で押し込んで来やがるのだ。親父がぴょこぴょこお辞儀をして、酒樽《さかだる》の鏡を抜いて馳走《ちそう》をしたもんだから、拍子抜がして素直に帰って行きゃあがった。ところが二三日するとまた遣って来やがった。倅《せがれ》の方は利かねえ気の奴だったから、野猪狩《ししがり》に持って行く鉄砲を打ち掛けた。そうすると奴共慌てて逃げてしまやぁがった。」
「そのうちに世間が段々静かになって来た。己は毎日毎日土蔵の脇《わき》で日なたぼっこをしていた。頭の上の処には、大根が注連縄《しめなわ》のように干してあるのだな。百姓の内でも段々|厭《あ》きて来やがって、もう江戸の坊様を大事にしなくなった。鳩南蛮なんぞは食わしゃあしねえ。」
「ある日の事、かますというものに入れた里芋を出しやがって餓鬼共にむしらせていやぁがるのだ。餓鬼は大勢いたのだ。むしって芽の所を出して見て、芽の闕《か》けた奴は食う方へ入れる。芽の満足でいる奴は植える方へ入れるのだ。己が立って見ていると、江戸の坊様も手伝ってお遣《やり》なさいと抜かしやぁがる。大《だい》ぶ江戸の坊様を安く踏むようになりゃあがったんだな。こうなっちゃあ為方《しかた》がねえ
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