e《アインフェルレ》 ※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]とでも云うのだろう。しかし己は嘘《うそ》は言わないから、誰も落ち込みはしない。己は遣って来る人の性質や伎倆《ぎりょう》や境遇を見て、その人に出来そうな為事《しごと》を授けるのだ。それで成功したものが、これまでに随分あるよ。妻がいつも傍《そば》で聞いていてそういうのだ。あなたそんなにお金になるような事を沢山知っていらっしゃるなら、御自分で少しして御覧なすってはどうですと云うのだ。女なんというものは馬鹿なものだ。なんでも余所《よそ》でする事を好い事だと思っている。己には己の為事がある。己なんぞは会社の為事をして給料を貰っていりゃあ好いのだ。為事は一つありゃあ好いのだ。思付なんぞはいくらでもあるから、片っ端から人にくれて遣る。それを一つ掴《つか》まえて為事にする奴が成功するのだ。中には己の思付で己より沢山金をこしらえるものもある。金が何だ。金くらい詰まらないものが、世の中にありゃあしねえ。」
 博士はそろそろ巻舌《まきじた》になって来た。博士は純粋の江戸子《えどっこ》で、何か話をして興に乗じて来ると、巻舌になって来る。これが平生寡言沈黙の人たる博士が、天賦の雄弁を発揮する時である。そして博士に親しい人々、今夜この席に居残っているような人々は、いつもこういう時の来るのを楽み待っているのである。
 博士は虚《から》になった杯を、黙って児髷《ちごまげ》の子の前に出して酒を注がせて、一口飲んで語り続けた。
「金が何だ。会社は事業をするために金がいる。己はいらねえ。己達《おれたち》夫婦が飯を食って、餓鬼|共《ども》の学校へ行く銭《ぜに》が出せれば好い。金を溜《た》めるようなしみったれは江戸子じゃあねえ。」
 こういう話になると、独り博士の友達が喜んで聞くばかりではない。女中達も面白がって聞く。児髷の子供も、何か分からないなりに、その爽快《そうかい》な音吐《おんと》に耳を傾けるのである。
 胡麻塩頭《ごましおあたま》を五分刈にして、金縁の目金を掛けている理科の教授|石栗《いしぐり》博士が重くろしい語調で喙《くちばし》を容《い》れた。
「一体君は本当の江戸子かい。」
「知れた事さ。江戸子のちゃきちゃきだ。親父は幕府の造船所に勤めていたものだ。それあの何とかいう爺《じ》いさんがいたっけなあ。勝安芳《かつやすよし》よ。勝な
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