里芋の芽と不動の目
森鴎外
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)盛《さかん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)理学博士増田|翼《たすく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]
−−
東京化学製造所は盛《さかん》に新聞で攻撃せられながら、兎《と》に角《かく》一廉《ひとかど》の大工場になった。
攻撃は職工の賃銀問題である。賃銀は上げて遣《や》れば好い。しかしどこまでも上げて遣るというわけには行かない。そんならその度合はどうして極《き》まるか。職工の生活の需要であろうか。生活の需要なんぞというものも、高まろうとしている傾《かたむき》はいつまでも止まることはあるまい。そんなら工場の利益の幾分を職工に分けて遣れば好いか。その幾分というものも、極まった度合にはならない。
工場を立てて行くには金がいる。しかし金ばかりでは機関が運転して行くものではない。職工の多数の意志に対抗する工場主の一人の意志がなくてはならない。工場主は自分の意志で機関を運転させて行くのである。
社会問題にいくら高尚な理論があっても、いくら緻密《ちみつ》な研究があっても、己《おれ》は己の意志で遣る。職工にどれだけのものを与えるかは、己の意志でその度合が極まるのである。東京化学製造所長になって、二十五年の間に、初め基礎の危《あやう》かった工場を、兎に角今の地位まで高めた理学博士増田|翼《たすく》はかく信じているのである。
製造所の創立第二十五年記念の宴会が紅葉館で開かれた。何某《なにぼう》の講談は塩原多助一代記の一節で、その跡《あと》に時代な好みの紅葉狩《もみじがり》と世話に賑《にぎ》やかな日本一と、ここの女中達の踊が二組あった。それから饗応《きょうおう》があった。
三|間《ま》打ち抜いて、ぎっしり客を詰め込んだ宴会も、存外静かに済んで、農商務大臣、大学総長、理科大学長なんぞが席を起たれた跡は、方々に群をなして女中達とふざけていた人々も、一人帰り二人帰って、いつの間にか広間がひっそりして来た。
もう十一時であろう。
今日の主人増田博士の周囲には大学時代からの親友が二三人、製造所の職員になっている少壮な
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング