理学士なんぞが居残って、燗《かん》の熱いのをと命じて、手あきの女中達大勢に取り巻かれて、暫《しばら》く一|夕《せき》の名残を惜んでいる。
花房《はなぶさ》という、今年卒業して製造所に這入《はい》った理学士に、児髷《ちごまげ》に結った娘が酌をすると、花房が顧みながら云った。
「何だ。お前の袖《そで》からは馬鹿に好《い》い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》がするじゃあないか。何を持っているのだ。」
「これなの。」
娘が絹のハンケチを取り出した。
「それだそれだ。※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]で思い出したが、ここの内に丁度お前のような薫《かおる》という子がいたが、あれはどうした。」
「薫さんはお内へ帰りましたの。」
「内は何だい。」
「お医者さんですわ。」
「おお方|誰《たれ》かが一旦《いったん》内へ帰して置いて、それからお上《かみ》さんにするというようなわけだろう。」
「知りませんわ。」
こんな話をしているうちに、聯想《れんそう》は聯想を生んで、台湾の樟脳《しょうのう》の話が始まる。樺太《からふと》のテレベン油の話が始まるのである。
増田博士は胡坐《あぐら》を掻《か》いて、大きい剛《こわ》い目の目尻《めじり》に皺《しわ》を寄せて、ちびりちびり飲んでいる。抜け上がった額の下に光っている白目|勝《がち》の目は頗《すこぶ》る剛い。それに皺を寄せて笑っている処がひどく優しい。この矛盾が博士の顔に一種の滑稽《こっけい》を生ずる。それで誰でも博士の機嫌の好い時の顔に対するときは、微笑を禁じ得ないのである。
誰やらが、樺太のテレベン油は非常な利益になりそうで、始て製造を試みた何某の着眼は実にえらいという評判だと云うと、黙って酒を飲んでいた博士が短い笑声を洩《もら》した。
「あれか。あれは樺太へ立つ前に己《おれ》の処へ来たから、己が気を附けて遣《や》ったのだ。」
一同耳を欹《そばだ》てた。この席にいるだけのものは、皆博士が人の功を奪うような人でないことを知っている。それだから、皆博士のこの詞《ことば》に信を置くのである。博士は再び無邪気らしい、短い笑声を洩《もら》して語り続けた。
「あればかりではないよ。己の処へは己の思付を貰《もら》いに来る奴が沢山あるのだ。むつかしく云えば落想とでも云うのかなあ。独逸《ドイツ》語なら Einfaell
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング