して遣らなくては。」皆さんと敬つて置いて、出して遣ると貶《けな》した所に、詞《ことば》に力を入れて呼んだのは、流石《さすが》気が利いてゐるが、その皆さんは一向引かうとしない。ロオデンシヤイドの上流社会は城壁のやうに屹立してゐる。やつとの事で今まで持ちこたへてゐる場所を、誰だつて人に譲らうとはしない。
 そのうち場内のものが蠢《うごめ》き出した。大人は熱して浮かれて、子供は笑つてゐる。数千人が、早く帰つて晩食を食はうと思つて、場外へ押して出る。それが忽ち堅固な抗抵に遭遇した。かうなると力一ぱい押して出ようとするのは必然である。
「皆さん。お引なさい。道をおあけなさい。」警部がいくら呼んでも駄目である。もう警部自身が群集の中で揉まれてゐる。巡査が数人それを救ひ出さうとして寄つて来たが、それもすぐに群集の中で揉まれることになつた。
 もう外へ出ることも出来なければ、内へ這入ることも出来ない。双方共|背後《うしろ》から押されてゐる。中にちよい/\理性に合《かな》つた詞を出すものがあつても、周囲《まはり》の罵り噪《さわ》ぐ声に消されてしまふ。此場の危険は次第にはつきり意識に上つて来た。
「おい。
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング