tけることはどうしても出来ない。そこで警察は途方にくれてゐる。それからあの部屋が極端に荒されてあつたと云ふ事や、娘の死骸が頭を下にして煙突にねぢ込んであつたと云ふ事や、母親の死骸に恐しい創が付けてあつたと云ふ事や、その外僕が今更繰り返すまでもない若干の事実が、評判の警察官の鋭敏を横道に引き込んで、警察官は全然観察力を失はされてしまつた。その横道に引き入れられたと云ふのは外でもない。これは極|粗笨《そほん》な、ありふれた誤謬だね。即ち単に尋常でない事と深い秘密とを混同するのだね。ところが目の開いたものから見ると、その尋常でないと云ふ事柄が却て真理の街《ちまた》を教へる栞になるのだね。かう云ふ場合に捜索をするには、「どう云ふ事が行はれたか」と云ふよりは寧ろ「行はれた事の中で、どれだけが前例のない事か」と云ふところに着眼しなくては行けない。いづれ僕はこの謎を容易に解いて見せる。いや、もう解いてゐると云つても好い。ところがその容易なところと、警察なんぞの目で解釈すべからざるものと認るところと一致してゐるのだね。」
 この詞を聞いた時、己は呆れて詞もなく友達の顔を見詰めてゐた。
 かう言ひ掛けて友達は入口の戸を顧た。それから語を継いだ。「実は僕は今客を待つてゐる。その客と云ふのは多分下手人ではあるまいが、少くもあの血腥い事件に或る関係を有してゐる人物なのだ。僕の推察では、その男は犯罪の最も重大な部分に対する責任は持つてゐないだらう。大抵僕の推理は適中する積りだ。僕の謎を解く手段は、今来る客を基礎にしてゐるのだから、これが適中しなくてはならないのだ。もうそろ/\来さうなものだと思ふが。それはどうかすると来ないかも知れない。併し先づ僕は来る方だと思ふ。そこで来たらそいつを逃さないやうにしなくてはならない。見給へ。こゝに拳銃が二つある。君も僕も打つ事は知つてゐる。これが用に立つかも知れないのだよ。」
 己はその拳銃を手に取つたが、なんの為めにさうしたのだか分からなかつた。又友達の言つてゐる事も、十分腑に落ちなかつた。ドユパンは構はずに饒舌り続けてゐる。それが独語《ひとりごと》のやうな調子である。こんな時の友達の様子が、余所に気を取られたやうな、不思議な様子だと云ふ事は、己は前に話した筈だ。友達は己を相手に物を言つてゐるのに、その格別大声でもない声が、なんだか余程遠い所にゐる人を相手にして物を言つてゐるやうな一種の調子になつてゐる。その目はなんの表情もなく向うの壁を見詰めてゐるのである。
「あの梯子を登つて行く人達が聞いたと云ふ、喧嘩をしてゐたものゝ声が女親子の声でないと云ふ事は、証人の申立で証明せられてゐると云つても好からう。さうして見るとお婆あさんが娘を殺して置いて自殺しただらうと云ふ推察は、頭から問題にならない。こんな事を言ふのは余計な事だが、順序を正して話す為めに、僕は言つて置くのだ。お婆あさんには娘の死骸を煙突の中へ押し込む腕力もあるまいし、又お婆あさんの体の創を見ても、自分で付けられる創でないことは分かる。さうして見ると第三者の下手人がなくてはならない。この下手人は単独でないことが、例の物争をした声で分かる。まあ、新聞の中であの声のことを言つてゐる申立を読み返して見給へ。一々皆読んで見なくても好い。目立つたところを繰り返して見れば好い。そこで君には何か特別な事が目に留まりはしないかね。」
 己は簡単に答へた。それはそつけない声をしたのがフランス人で男だと云ふには、殆ど異論がないのに、今一つの鋭い声を出したものに就いては証人毎に変つた判断をしてゐると云ふ点だと答へたのである。
「君の云ふのは証言其ものであつて、その目立つのが何物だと云ふことにはなつてゐない。さうして見ると君にはその特別なところが分からないらしいが、たしかに特別なところがあるのだよ。君の云ふ通りどの証人も所謂《いはゆる》そつけない声に就いては異論がなかつた。ところが所謂鋭い声となると区々《まち/\》なことを云つてゐる。イタリア人だとか、イギリス人だとか、スパニア人だとか、フランス人だとか云ふが、要するにその申立をした人が自国の人でなくて、外国の人だと思つたのだ。仮令《たとへ》ばフランス人の云ふにはあれは、多分スパニア人であつただらう、若し自分にスパニア語が分かつたら、何を言つたか、一言や二言は分かつたに違ひないと云ふ。又フランス語を知らないので、通訳を以て申し立てたオランダ人は、その鋭い声をフランス人だらうと云ふ。ドイツ語の分からないイギリス人はドイツ語だらうと云ふ。イギリス語の分からないスパニア人は、発音から推測してイギリス人だらうと云ふ。ロシア人の談話を聞いたことのないイタリア人はロシア語だらうと云ふ。イタリア語の分からない、今一人のフランス人はイタリア語だらうと云ふ。これも発音から推測したのだ。さうして見ると所謂鋭い声は余程異常な、不思議な声だつたに相違ない。詰まりヨオロツパ中のどの国の人も自国ではそんな声を聞いた事がないのだ。そこで君はその声の主をアジア人かアフリカ人かであつたかも知れないと云ふだらう。まづさう云ふ人種はパリイには余り多く見掛けない。それは兎も角も僕は君に証人共の申立の中で、三人の言つた事に注意して貰ひたい。一人はその声が叫ぶやうであつて鋭いと云ふのも当らないかも知れないと云つてゐた。跡の二人は忙《せは》しく不整調に饒舌《しやべ》つたと云つてゐる。どの証人も言語や言語らしい音調を聞き分けたものがない。これだけの説明をしたところで、君はその中からどれだけの判断を下すか知らないが、僕は証人共の説明した声の性質から、この問題の研究に一定の方針を立てるだけの根拠を見出したと断言することを憚らない。僕は僕の推理が唯一の正しいものだと思ふ。そしてその推理から或る嫌疑が出て来るのだ。僕はその嫌疑に本づいて、あの部屋を見るにも特別な点に注意したのだ。」
「まあ、お互に今あの部屋に這入つたと想像して見給へ。そこで何を捜したら好いだらう。どうしても下手人の逃げた道と、どうして逃げたと云ふ手段とが先に立たなくてはならないね。そこで君だつて僕だつて奇怪不思議な事、超自然の事があるとは信ぜない。これは無論の話だね。そこでレスパネエ夫人と娘とは決して怪物に殺されたのではないとすると、その下手人は血もあり肉もあるもので、それが逃げるには、自然の道に由つて逃げなくてはならない。ところでどうして逃げたゞらう。まづ片端からあらゆる逃道を数へて見よう。大勢の人が梯子を登つて行く時、下手人の仲間は、あの娘の死骸のあつた室かその隣室かにゐたに相違ない。して見るとこの二つの室から外へ通ずる道を考へて見れば好いわけだ。警察では床板や壁や天井まで目を着けて板なんぞを剥いで探つて見たらしい。だから秘密な出口なぞの人の目に付かずにしまつたものゝないことは分かる。ところが僕は役人共の目に信頼することが出来ないから、自分の目で見直した。二つの室から廊下へ通ずる二つの戸口があるが、その戸は締めてあつたのだ。戸の鑰《ぢやう》には内から鍵が插し込んであつた。そこでカミン炉はどうだ。炉の中を見ると、火床の上八尺乃至十尺位の所までは通常の広さになつてゐる。併しそれから上は細くなつてゐて、猫でも少し大きいのは通られない。これだけ考へて見ると、残つてゐる逃道は窓の外にはない。そこで前面の室の窓から逃げようと云つたつて、それは往来に集つてゐた大勢の人に見られるから出来ない。下手人はどうしても中庭に向いた室の窓から逃げたとしなくてはならない。この断案は精密な研究から得来つたものであつて見れば、あの窓からは逃げられさうもないと云ふやうな浅薄な反対を受けても、それでこの断案を飜すわけには行かない。そこでこの不可能らしく見えてゐる事が可能だと云ふことを証明しなくてばならぬ段取になるのだ。」
「あの室には窓が二つある。その一つの窓の側には家具なんぞは置いてない。窓は全形が見えてゐる。今一つの窓の下部は重くろしい寝台の頭の方で見えなくなつてゐる。全形の見える分の窓は密閉してあつた。僕の往くまでにもその戸を下から押し上げて開けようとしたものがあつたのだが、どうしても開かなかつたのだ。その窓の枠の左側には可なり大きい錐孔が揉んであつて、それに一本の釘が殆ど頭まで打ち込んである。今一つの窓を検査して見ると、やはり同じやうな釘が同じやうに打ち込んである。この窓の戸も下から押し上げようとしたつて上がらない。それだけのことは警察の役人も遣つて見て、そこで下手人が窓から逃げた筈がないと決定した。だから役人共はその釘を抜いて窓を開けて見る必要を認めなかつたのだ。」
「ところが僕は今少し立ち入つた研究をした。なぜと云ふに彼の不可能らしい事を可能にするには、この窓の研究を以てするより外に道がないからだ。」
「僕はこの場合に結論から逆に考へて見た。下手人はこの二つの窓の内、どれかから逃げたに相違ない。逃げたとすれば、その窓を内から締めることは出来なかつた筈だ。警察の役人共もこれだけのことは考へたが、そこで行き止まつた。成程窓は締めてあつた。併しどうかして一旦開いた後に、ひとりでに締つたかも知れない。この断案は動かすべからざるものだ。僕は全形の見えてゐる窓に往つて釘を抜いて見た。釘は少し力を入れて引つ張ると抜けたが、窓の戸を押し上げることは、どうしても出来なかつた。そこでこれはどこかに撥条《はじき》が隠れてゐるだらうと思つた。釘だけの事を考へると、如何にも不思議らしく見えても、撥条があるとすると、解決の道が付くのだ。暫く綿密に捜してゐるうちに、果して隠れた撥条が見付かつた。そこでその撥条を押して見た。僕はまづそれだけで満足して、窓の戸を押し上げては見なかつた。僕は釘を插し込んで置いて、注意して窓の工合を見た。仮に人がこの窓から逃げて外からその戸を締めたとすると、撥条は締まるだらうが、釘は插さらない。それは簡単な道理で、この道理が僕の研究の区域を一層狭めてくれたことになる。即ち下手人は今一つの窓から逃げたに相違ないのだ。」
「そこで二つの窓を較べて見るのに、全く同じ形をしてゐる。撥条も同じであらう。すると釘にはどこかに違つたところがなくてはならない。僕は寝台の藁布団の上に上がつて、寝台の頭の方の蔭になつた所を締密に捜した。手を寝台の向うに廻して探るうちに、果して撥条が手に障つた。僕はそれを押して見た。撥条の構造は全く前の窓と同じであつた。そこで僕は釘を見た。その大きさは前の窓の釘と同じで、やはり殆ど釘の頭まで打ち込んである。君はこゝ迄話すと、僕が失望しただらうと思ふかも知れないが、それは僕の推理の工夫を領解しないのだ。猟師の詞で言ふと僕は決して血蹤《はかり》を見損なつたのではない。又血蹤を尋ねて行く途中で僕は少しもまご付いたのではない。僕の推理をして来た思想の連鎖は一節毎に正確なのだ。僕は秘密を究竟のところまで追尋《つゐじん》して来てゐる。どうしても釘に曰くがなくてはならない。見たところでは釘の形は前の窓の釘と同じだ。併しどうしてもどこかが違つてゐなくてはならない。なぜと云ふに外観が同じだと云ふ位なことで、僕の正確な思想の連鎖は断たれないからだ。」
「そこで僕は釘に手を掛けた。すると釘は折れてゐて、頭に二分五厘許の柄が付いて、ぽろりと抜けて、己の指の間に残つた。柄のそれ以下の部分は錐の揉孔の中に嵌つてゐる。この釘の折れたのは余程久しい前でなくてはならぬ。なぜと云ふに折目が※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さ》びてゐるからだ。多分釘は槌で打ち込む時折れたのだらう。折れながら打ち込まれて、頭の痕を窓枠の下の方に印するまで這入つたのだらう。己は又その釘の頭を元の通りに錐の孔に嵌めて見た。しつくり嵌つて、折れた釘とは見えない。それから己は撥条《はじき》を押して窓の戸を二三寸押し上げて見た。窓の戸はすうつと上がる。釘の頭だけが付いて上がる。千を放すと窓の戸は下りてしまふ。釘の頭は依然としてゐる。」
「さうして見ると謎がこゝまでは解けたと
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