黷スり。その他屋内は隅々まで検査を経ざる所なし。彼の煙突も念の為め十分に掃除せしめられたり。この家屋は四層立にしてその上に屋根裏の数室あり。屋根裏の室より屋根に出づる口には上下《うへした》に開閉する扉あり。この扉は釘着になしありて、数年来開きしことなきものゝ如くなりき。最初に物争の声を聞きし瞬間より、レスパネエ家の娘の屍体を発見せし室の戸をこじ開けし時に至るまでの時間の長短は数人の申立一致せず。或は三分間位なりきと云ひ、或は又少くも五分間なりきと云へり。彼室の扉を開くことはさ程容易にはあらざりしものゝ如し。
アルフオンゾ・ガルシオは葬儀屋営業者にして、病院横町に住せり。このスパニア人の申立次の如し。本人は最初に屋内に入りし数人の中なり。然るに梯子をば登らざりき。これ平生神経質なるがゆゑに、惨状を見て興奮せんことを恐れしがゆゑなり。物争をなす人の声は聞えたり。そつけなき声は男子にてフランス人なりきと思はる。その語をば聞き取ること能はざりき。鋭き声の主はイギリス人なりしこと確実なりと云へり。本人はイギリス語を解せざれども、発音に由りて判断したりと云ふ。
アルベルトオ・モンタニは菓子商なり。その申立次の如し。本人は最初に梯子を登りし一人なり。疑はしき二人の声を聞けり。そつけなき声はフランス人なりきと思はる。数語をばたしかに聞き取りたり。鋭き声の方は一語をも解せざりき。この声の主は不揃なる調子にて早口に饒舌《しやべ》りたり。或はロシア人なりしかと云へり。その他前記数人の申立に符合せり。本人はイタリア人にて、ロシア人と対話せしことなしと云ふ。
再び呼び出されたる証人数人の申立に依れば、第四層屋の諸室のカミン炉は皆甚だ狭くして、人の逃れ出づべき容積を有せずと云へり。然れども屋内の煙突は皆尋常煙突掃除人の使用するが如き円筒形の煤刷毛を以て上下とも十分に掃除せられたり。屋内には裏梯子なきを以て、人々の表梯子より登る間に、何人も階上より逃れ去りし筈なし。煙突内にねぢ込みありし娘の屍体は、如何にも無理にねぢ込みしものと見え、これを引き出すには四五人の男力を合せて纔《わづか》に出すことを得たり。
ポオル・ドユマアは屍体検案の為め召喚せられし医師なり。その申立次の如し。本人の呼び出されしは払暁なりき。二人の屍体は娘の屍体を発見せし室の藁布団の上に置かれたりき。娘は擦過創及挫傷の為めに甚しく変形しゐたり。この損傷は煙突に押し込み、又引き出したる為めに生ぜしならん。喉頭は全く圧砕しありたり。腮《あご》の直下に数箇の爪痕《さうこん》及暗紫色の斑点ありき。これ指にて強く圧したるが為めに生ぜしものならん。顔は腫脹《しゆちやう》せる為め甚しき醜形を呈せり。両眼球は眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]より突出しゐたり。舌は半ば噬《か》み切りありたり。上腹部に大いなる挫傷あり。恐くは膝頭にて圧したるものならん。本人の断定に依れば、レスパネエ家の娘は未詳の数人の絞殺するところとなりしならんと云ふ。母の屍体も又甚しく損傷せられたり。右上肢《いうじやうし》及右下肢のあらゆる骨は多少挫折せられたり。左脛骨《さけいこつ》及|左胸《さきよう》の諸肋骨は粉砕せられたり。その他全身に挫傷及皮下出血多く、一見恐るべき状態を示せり。此の如き損傷を来したるを見れば、膂力《りよりよく》ある男子ありて、手に棍棒、鉄棒、椅子等の如き大いなる、重き、鈍き器を取り、それにて打撃したるものと推測せらる。如何なる武器を以てすとも、女子の力にては此の如き加害をなすこと能はざるべし。母の首は検案の際全く躯幹より切り放し且つ挫滅しありたり。頸を切るには極めて鋭き器を以てしたるならん。或は剃刀なりしかと云へり。
アレクサンドル・エチアンヌは外科医にして、ドユマアと共に屍体の検案を命ぜられし助手なり。この医師は総てドユマアの証言を是認し、又その断定に同意を表せり。
以上の外証人として出廷せし人数は少からざれども、特殊なる事実は発見せられざりき。仮に本事件を殺人犯なりとせんも、古来パリイ市中に於て此の如く事体暗黒にして、細部分までも不可思議なる殺人犯を出したることなし。今に至るまで警察は何等の手掛かりをも有せずと云ふ。これ此の如き刑事問題にありては殆ど前例なき事実なりとす。又警察以外の方面より見るに、これ亦この恐怖すべき出来事に対して説明の片影《かたかげ》をだに捉へ得たるものなし。」
新聞の夕刊には、聖ロツキユウス町ではまだ人心が洶々《きよう/\》としてゐると云ふ事、犯罪の場所を再応綿密に調べたり、続いて証人を呼び出して審問したりしたが、いづれも得る所がなかつたと云ふ事などが出てゐる。その次に又銀行の小使アアドルフ・ルボンが逮捕せられたと云ふ事が書き添へてあつた。前に新聞に出た申立の外に、別段嫌疑の廉《かど》はないのに未決檻に入れられたのである。
この事件の経過にドユパンはひどく興味を持つてゐるらしく見えた。少くもこの男の挙動を見て、己はさう云ふ推定を下すことが出来たのである。かう云ふ場合の常として、ドユパンはこの事件の事を毫も口にしない。やつとルボンが縛られたと云ふ記事を読んだ時になつて、ドユパンは纔に口を開いて、己にどう思ふと云つた。
己の意見は当時パリイの市民が一般に懐抱してゐた意見と同じである。この事件は到底解釈すべからざる秘密たる事を免れない。下手人の行方を捜し出す手段は所詮あるまいと云ふのである。
ドユパンは己の返事を聞いた上で云つた。「どうせ証人の申立なんぞは浅薄なもので、それに由つて捜索の手段を見出すことは出来ないよ。パリイの警察は敏活だと世間で褒められてゐるが、あれは狡猾だと云ふに過ぎないね。何か捜さうとする時には、その刹那々々の思付で手段を極る。その外には手段がないのだ。大抵どうすると云ふ方針の数が極まつてゐて、何事をもそれに当て嵌める。だからどうかするとちつとも実際に適合しない方針を取ることになる。笑話に或人が寝衣《ねまき》を着て音楽を聞いた事があつたので、その後音楽の好く聞えない時には、その寝衣を出させて着て見ると云ふことがある。パリイの警察もどうかするとこれと同じやうな滑稽を遣るのだね。成程既往に溯つて見ると、パリイの警察が好結果を得たことも沢山あるよ。だがそれは只念を入れて忍耐して捜し出したか、又は八方に手を出して捜し出したかの二つに過ぎない。この二つが駄目になると、警察はどんなに骨を折つても成功することが出来ないのだ。あのヰドツクなんぞは物を考へ当てること即ち射物《しやぶつ》がひどく上手で、忍耐してそれを追躡《つゐせふ》して往くのだ。ところがあいつの思量はなんの素養もないのだから、考へ外れが沢山ある。そしてその間違つた方角に例の忍耐を以て固著してゐるのだから溜まらない。それにあいつは対象物を目の傍に持つて来て視る流義だから、或る一二点を如何にも鋭く見るが、全体を達観することが出来ない。兎角物を余り深く見ようとするとさうなるのだ。ところがいつでも井戸の中さへ覗けば真理が得られると云ふものではないからね。僕なんぞは反対に考へてゐる。あらゆる重大な発見は大抵浅い所にあるのだね。人はその真理を谷間に求めたがるが、それよりか寧ろ山の頂に求めた方が好いのだ。この関係は天体を観察する方法を見ても分かる。人がどんな間違をするか、その間違が何から起るかと云ふことが、天体の例で説明すると分かるのだ。星なんぞを見るのに、それを注視しないで、ざつと横目で見るのが好い。さうすると星が目の網膜の外囲部に映る。そこは中心部よりも微弱な光線を知覚するに適してゐる。そこで星の形もその光も一番はつきり分かる。それを注視すれば注視するほど星の光は濁つて来る。無論注視した時の方が、目に受ける光線は量は多いが、それを感ずることが鈍いから無駄になる。それに反して横目でちよいと見ると、少い量の光線に対する感受性が鋭敏なので却て好く見える。それと同じ道理で深くえぐつた捜索法は人の思量を鈍らせて混雑させる。金星位な星だつてぢかにぢつと見詰めてゐると、とう/\天の何処にもゐなくなつてしまふよ。そこであの殺人事件だがね。あれに就いて考案を立てるには、まづ我々ばかりの手で特別な捜索をしなくてはならないね。そいつが随分面白からうと思ふよ。」
ドユパンがかう云つた時、あのいまはしい犯罪の形跡を尋ねるのが面白からうと云ふのを、己は随分異様に感じた。併し黙つてゐた。友達は語を継いだ。
「それにあのルボンと云ふ男には、僕は一度世話になつた事がある。だからあいつを救つて遣るのは、僕の為めには報恩になるのだ。兎に角君と一しよに犯罪の場所を実検しようぢやないか。幸僕はG《ヂエ》警視を知つてゐるからあそこへ往つて見るだけの許可を得るのは造作はないよ。」
友達はかう云つて直ぐにそれだけの手続を実行した。そこで我々二人は早速病院横町へ出向いた。この横町はリシユリヨオ町と聖ロツキユウス町とを連接した狭い道で、パリイの横町の中で、一番貧乏臭い横町の一つである。我々の住んでゐる所から聖ロツキユウス町迄の距離は大ぶあるので、我々が病院横町に到着したのは午後遅くなつてからである。犯罪のあつた家は容易に見付かつた。それは大勢の人がその向側の人道に集まつてゐて、なんの意味もなく、物珍らしげに鎖された窓を見詰めてゐたからである。家はパリイの普通の建築で、中央に歩道があつて、その横手に引戸の付いた窓がある。そこが門番のゐる所である。我々は直ぐに目当の家に這入らずに、まづその前を通り抜けて横町に曲つて、家の背後《うしろ》に出た。その間ドユパンは目当の家は勿論、その近隣の家々をも綿密に見てゐた。己はそれを無駄な事のやうに思つた。
それから我々は再び家の裏口に戻つて、ベルを鳴らして警察の認可証を見せた。番をしてゐた役人が、我々を家の中へ入れた。我々は梯子を登つて、例のレスパネエ家の娘の死骸があつたと云ふ室に這入つた。そこに今は母親の死骸も一しよに置いてあるのである。己の目に這入つたのはガゼツト・デ・トリビユノオ新聞に書いてあつたやうなことだけである。ドユパンは何もかも綿密に検査した。二人の女の体をも見た。それから残の部屋々々を歩いて見て、とう/\中庭に出た。その間憲兵が一人我々に離れずにどこまでも付いて来た。ドユパンの検査は日の暮れるまで掛かつた。役人に暇乞をして帰道に掛かつてから、ドユパンは或る新聞の発送所に立ち寄つた。
ドユパンと云ふ男が妙な癖のある男だと云ふことは、己はもう話した筈だ。だから己は何事も友達の勝手にさせて置く。その晩にはなぜだか知らぬがドユパンは病院横町の殺人事件の話をわざと避けてしないやうにしてゐた。それから翌日の午頃になつてドユパンは突然己に言つた。「君はあのいまはしい場所で、何か特別な事に気が付きはしなかつたかね。」
その「特別な」と云ふ詞の調子が己には妙に聞えて、なぜだか知らぬが、己はぞつとした。己は云つた。「いや。どうも特別な事は僕には発見せられなかつたね。僕の気の付いたのは、大抵新聞に書いてあつた位の事だね。」
友達は云つた。「どうも僕の考へたところでは、ガゼツトなんぞはあの事件の非常に気味の悪い方面に、まるで気が付いてゐないのだね。だが新聞紙の下らない意見なんぞは度外視するとしよう。僕の考では人が解釈すべからざる秘密だと思つてゐる廉《かど》が、却てその秘密を訐《あば》き易くするわけになるのだね。あの事件の行はれた周囲の状況は、捜索すべき区域を極狭く、はつきりと限つてくれるから、僕は都合が好いと思ふ。なぜ警察がまご/\してゐるかと思ふと、あの場合に人を殺すだけの動機はよしや推測することが出来るとしても、なぜあれ程惨酷な殺し態《ざま》をしなくてはならなかつたかと云ふ動機がどうしても見付からないからだ。娘の殺されてゐた部屋に誰もゐなかつたと云ふ事実、それから梯子を登つて行つた人と擦れ違はずに、人間があの家から逃げ出す筈がないと云ふ推測、この二つのものと、多くの人の聞いたと云ふ争論の声とを結び
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