病院横町の殺人犯
THE MURDERS IN THE RUE MORGUE
エドガア・アルラン・ポオ Edgar Allan Poe
森林太郎訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)看做《みな》された
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一種|天稟《てんりん》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔He'loise〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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千八百〇十〇年の春から夏に掛けてパリイに滞留してゐた時、己はオオギユスト・ドユパンと云ふ人と知合になつた。まだ年の若いこの男は良家の子である。その家柄は貴族と云つても好い程である。然るに度々不運な目に逢つて、ひどく貧乏になつた。その為めに意志が全く挫けてしまつて、自分で努力して生計の恢復を謀らうともしなくなつた。幸に債権者共が好意で父の遺産の一部を残して置いてくれたので、この男はその利足でけちな暮しをしてゐる。贅沢と云つては書物を買つて読む位のものである。この位の贅沢をするのはパリイではむづかしくはない。
己が始てこの男に逢つたのは、モンマルトル町の小さい本屋の店であつた。偶然己とこの男とが同じ珍書を捜してゐたのである。その時心易くなつて、その後度々逢つた。一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話を己に聞かせた。それを己はひどく面白く思つた。それに己はこの男の博覧に驚いた。又この男の空想が如何にも豊富で、一種|天稟《てんりん》の威力を持つてゐるので、己の霊はそれに引き入れられるやうであつた。丁度その頃己は或る目的の為めにパリイに滞留してゐたので、かう云ふ男と交際するのは、その目的を遂げるにひどく都合が好いと思つた。その心持を己は打ち明けた。そこでとう/\己がパリイに滞留してゐる間、この男が一しよに住つてくれることになつた。二人の中では己の方が比較的融通が利くので、家賃は己が払ふことにして妙な家を借りた。それはフオオブウル・サン・ジエルマンの片隅の寂しい所にある雨風にさらされて見苦しくなつて、次第に荒れて行くばかりの家である。なんでもこの家に就いては、或る迷信が伝へられてゐるのださうだつたが、我々は別にそれを穿鑿もしなかつた。二人はこの家を借りて、丁度その頃の陰気な二人の心持に適するやうに内部の装飾を施した。
若しその頃二人がこの家の中でしてゐた生活が世間に知れたら、二人は狂人と看做《みな》されたかも知れない。勿論危険な狂人と思はれはしなかつただらう。二人は誰をもこの家に寄せ付けずにゐた。己なんぞは種々の知合があつたのに、この住家を秘して告げなかつた。ドユパンの方ではもう数年来パリイで人に交際せずにゐたのである。そんな風で二人は外から、邪魔を受けずに暮した。
己の友達には変な癖があつた。どうも癖とでも云ふより外はない。それは夜が好きなのである。己は次第に友達に馴染んで来て、種々の癖を受け続いで、とう/\夜が好きになつた。然るに夜と云ふ黒い神様はいつもゐてはくれぬので、これがゐなくなると工夫して昼を夜にした。我々は夜が明けても窓の鎧戸を開けずに、香料を交ぜて製した蝋燭を二三本焚いてゐる。その蝋燭が怪談染みた微な光を放つのである。この明りの下で我々はわざと夢見心地になつて、読んだり書いたり話したりする。その内本当の夜になつたことが時計で知れる。それから二人は手を引き合つて往来へ出て、歩きながら昼間の話の続きをする。又|夜更《よふけ》まで所々をうろついて珍らしい光明面と闇黒面とを味ふのである。パリイのやうな大都会にはこの両面があつて、吾々のやうな局外の観察者には無限の興味を感ぜさせるのである。
かう云ふ場合にドユパンは不思議な分析的技能を発揮して己を驚かすことがある。友達はこの技能を発揮して、自分で愉快を感じてゐる。人が誰も見聞してくれなくても好いのである。友達はこの心持を己に打ち明けてゐる。或る時友達は己に笑ひながら云つた。「世間の人は大抵胸に窓を開けてゐて、僕にその中を覗かせてくれるのだね」と云つた。そしてその証拠として、丁度その時己の考へてゐた事をすつかり中《あ》てゝ己を驚かした。
この技能を働かせてゐる時の友達の様子は冷澹で、うはのそらになつてゐるやうで、その目はなんの表情もなく空を見てゐる。その声は不断テノル調であるのにこの時はヂスカント調になつてゐる。ちよいと聞くと浮かれてゐるのかと思はれるが、その言語が如何にも明晰で、その思想が如何にも沈着で、決して浮かれてゐるのでないことが分かる。己は友達のさう云ふ様子を見る度に、古代の哲学にある一|人《にん》二霊説を思ひ出さずにはゐられない。どうも創造的性質のドユパンと分析的性質のドユパンとがあるやうなのが、己には面白く思はれた。
かう云つたからと云つて、己が何か秘密を訐《あば》かうとするだらうだの、小説を書くだらうだのと思ふのは間違である。このフランス人に就いて己の話すのは簡単な事実に過ぎない。その事実は過度に働いてゐる、事に依つたら病的な悟性の作用かも知れない。当時のこの人の観察の為方は次の例を以て人に理解させるのが最も適当であらう。
或る晩のことであつた。我々二人はパレエ・ロアイアルの附近の長い、汚い町を、ぶら/\歩いてゐた。二人とも何か考へ込んでゐたので、十五分間程一|言《ごん》も物を言はずにゐた。突然ドユパンが云つた。
「実際あいつは馬鹿に小さい男で、どうしても寄席に出た方が柄に合つてゐるね。」
「無論さうさ。」
己は覚えずこの返事をした。余り深く考へ込んでゐたので、己は最初この問答をなんの不思議もないやうに思つた。併しこの問答は己の黙つて考へてゐることの続きになつてゐる。
己はそれに気が付いたので、びつくりせずにはゐられなかつた。己は真面目に云つた。
「おい。ドユパン。あんまり不思議ぢやないか。正直に言ふが、今の話は実際君の口から出て僕の耳に這入つたのだか、どうだかと疑はずにはゐられないね。僕の腹の中で考へてゐたことをどうして君は知つたのだ。君には全く僕が誰の事を思つてゐたと云ふのが分かつたのかい。」己はかう云つてドユパンが真にその人が誰だと云ふことを中《あ》てたのだか、たしかめて見ようと思つた。
「無論シヤンチリイの事さ。なぜ君話を途中で止めたのだい。さつき君はあいつが余り小柄だから、悲壮劇の役を勤めるのは無理だと思つてゐたぢやないか。」
実際己はさう思つてゐた。シヤンチリイと云ふのは元サン・ドニイ町の靴屋で、それが俳優になつてゐるのである。そいつが此間クレビリヨンの作クセルクセスの主人公を勤めた。そして非常な悪評を受けたのである。
己は云つた。「どうぞ君僕に言つて聞かせてくれ給へ。一体どんな方法で僕の心が読めるのだい。若しさう云ふ法があるものなら、それを聞かせてくれ給へ。」詞《ことば》ではかう云つたが、己の不審はとても詞で言ひ現されない程であつた。
友達は云つた。「君、あの果物屋を見て、それから靴屋のシヤンチリイがクセルクセスだとか、その外古代劇に出て来る英雄の役に不適当だと云ふことを考へたのだらう。」
「果物屋だつて。どんな果物屋だい。僕にはまるで心当がないが。」
「それ。さつきの町の曲角で君に打《ぶ》つ付かつた男さ。さうさね。十五分ばかり前だつたかな。」
かう云はれて己は思ひ出した。成程己が|C町《セエまち》から今立つてゐる抜道に曲り掛かつた時、林檎を盛つた大籠を頭に載せた男が己に打つ付かつて、己は倒れさうになつたのだ。併しそれとシヤンチリイとの間にどんな連絡があるか、己にはまだ分からない。
併しドユパンは決して※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]衝《うそつ》きではなかつた。己に説明して聞かせたところはかうである。「そんなら君に言つて聞かせよう。君に得心の行くやうに思想の連鎖を逆に手繰つて見よう。まづ君の考へ込んでゐる時、僕が突然声を掛けた、あの時を起点として、あれから逆に戻るのだね。そしてあの果物屋の打つ付かつた時まで帰り着けば好いわけだね。この連鎖の主な廉々《かど/\》は一、シヤンチリイ二、オリヨン三、ドクトル・ニコルス四、エピクロス五、立体幾何学六、敷石七、果物屋とかう云ふ順序だよ。」
思想が転変して或る帰着点に到達する順序を逆に考へて見ると云ふ事は、随分誰でも遣つて見る事である。さう云ふ事は随分面白い。始て遣つて見た人は、その連鎖の始と終とを並べて見て、その二つが非常に懸隔してゐるのに驚くだらう。己は友達の話を聞いて非常に驚いた。それが事実であつたからである。
友達はかう云つた。「もし僕の記憶が誤つてゐなかつたら、君と僕とはC町から曲る前に馬の話をしてゐたね。それ切り物を言はなくなつたのだ。それから角を曲つてこの抜道に出るとたんに、林檎を盛つた大籠を頭に載せた果物屋が駈けて来て、君に打つ付かつた。その時君は往来に敷く敷石の積んであるのに足を蹈み掛けた。その石がぐら付くと、君はすべつて少し足を挫いた。その時君は腹を立てゝ、何か口の内でつぶやいて、積んである石を一目見て、それから黙つて歩き出した。僕は別段君に注意してゐたわけでもないが、どうもこの頃物を観察するのが癖になつてゐるもんだから為方《しかた》がない。そこで見てゐると、君は下を向いて歩いてゐる。そして腹立たしげに敷石の穴や隙間を見てゐる。そこで君が敷石の事を考へてゐると云ふことが分かつたのだね。するとラマルチン町の所に来た。あそこには試験的に肋状《あばらなり》に切つて噛み合せるやうにした石が敷いてあつた。それを見た時、君の顔色が晴やかになつて、君は口の内で何やら言つた。君の唇を見ると、その詞が『ステレオメトリイ』と云ふ詞らしかつた。立体幾何学だね。あの敷石を見てそんな名を付けるのは、随分大袈裟だつたには相違ないよ。君はその詞を口にした跡で、直ぐに『アトオム』と云ふ事を考へた。元子だね。極微《ごくみ》だね。それから哲学者エピクロスの教義を思ひ出した。ところが此間君と哲学談をした時、お互にかう云ふことを言つたね。あの君子風のグレシア人は空想で説を立てたのだが、近世コスモゴニイの研究が出来てから、天体の発展が分かつて来て、エピクロスの説いた事が事実的に証明せられたと云つたね。そこで君がエピクロスの教義を思ひ出したからには、君はそれと同時に、多分オリヨン星の霧を仰向いて見るだらうと、僕は考へた。君は果して仰向いて天を見た。そこで僕の推測の当つたのが分かつた。ところできのふあのミユゼエと云ふ雑誌に俳優シヤンチリイを嘲つた諷刺的批評が出たね。あの批評の中にシヤンチリイが靴屋を止めて舞台に出た時、名を変へたことを冷かしてラテンの詩句が引いてあつた。Perdidit antiquum litera prima sonum と云ふのだね。この詩句に就いては、僕が前に君に話した事がある。僕の云つたのは、この詩句はオリヨン星の事を指したもので、オリヨンの古い名はユリヨンだつたと云つたね。この説明はその時の事情から推すと、君が忘れずにゐるものと考へられるのだね。そこで君はどうしてもオリヨン星を見ると同時に、俳優シヤンチリイの事を思ひ出さずにはゐられないと、僕は考へたね。この推察が当つたと云ふことは、そのとたんに君の唇に現れた微笑で証明することが出来たのだ。君はあの時靴屋上がりのシヤンチリイが劇評家にひどく退治られたのを思ひ出したのだね。それまで君は背中を円くして歩いてゐたところが、丁度その時君は
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