]ふものだ。下手人は寝台の置いてある側の窓から逃げたのだ。逃げた跡で窓はひとりでに締まつたのだらう。又窓の外の開戸は逃げた奴がはずみで締まるやうに撥ね返して置いたかも知れぬ。兎に角内の戸は撥条が利いて跡が旨く締まつてゐたのだ。その締まつてゐたのを警察は釘の為めだと思つて、それから先を研究しなかつたのだね。」
「そこで下手人は窓から出たには相違ないが、出てからどうして下りたかが疑問だ。己は家の外廻を廻つて見た時、そこに気を付けて見た。丁度あの窓から五尺五寸許の距離に避雷針から地面へ引いた針金を支へる棒が立つてゐる。併し外から這入るとすると、この棒を登つて往つて、窓に手を掛けることは出来ない。況んや窓から這入ることは出来る筈がない。ところがあの家の第四層の窓の外枠はこの土地でフエルラアドと云ふ構造になつてゐるのに、己は気が付いた。この種類の窓枠は、近頃殆ど造るものがない。リヨンやボルドオの古家でよく見る窓枠なのだ。この構造の窓では、外側の戸は普通の観音開の戸と違つて、寧ろ室の入口の戸に似てゐる。只その下の半分に横に桟が打つてあるか、又は透かしになつた格子が取り付けてある。どつちにしても手で掴むには都合が好く出来てゐる。そこであの家のあの窓の外枠だが、あれは幅が少くも三尺五寸位ある。我々が家を裏から見た時、外の戸は半分開いてゐた。即ち壁の面と直角を形づくつてゐたのだ。多分警察の奴等も家の裏側を検査したには相違ない。併しあのフエルラアドの幅の広いのに気が付かなかつたか、それとも気が付いてもそれを利用するものがあらうと云ふところまで考へなかつたか、二つの内どつちかだ。要するにこんな所から逃げられる筈がないと、太早計《たいさうけい》に極めてしまつたので、この辺は好い加減に見過ごしたのだ。ところが己はあの窓を外から見た時、外の戸をぴつたり壁まで開くと、針金を支へた枠から二尺の距離に外の窓枠があつて、手が届くと云ふことに気が付いた。さうして見るとこゝに非常に軽捷な然も大胆な奴がゐて、あの棒からあの窓枠に飛び付かうとすれば、飛び付かれると云ふことが、己には分かつた。さう云ふ奴が棒を攀ぢ登つて行つて、壁へ付いてゐた外の窓枠の桟にしつかり掴かまつて、今まで手を絡んでゐた棒を放して、足で壁を踏まへて、体を窓枠にぶら下がらせて撥ね返すと窓の外の戸が締まる。その時窓が開いてゐれば、そいつは窓から室内へ飛び込むことが出来るのだ。」
「そこで君に注意して貰ひたいのは、そんな冒険な事を旨く為遂《しと》げるには、そいつが非常な軽捷な奴でなくてはならぬと云ふ点だ。僕の説明するのはさう云ふ軽業が不可能でないと云ふのが一つで、それからこれを為遂げるのは、非常に軽捷な奴でなくてはならぬと云ふのが二つだ。かう二段に分けて僕の説明を聞き取つて貰はなくてはならないのだね。」
「この説明を聞いたところで、君には多分不得心な廉《かど》があるだらう。それは窓から這入つて行く奴が非常に軽捷でなくてはならぬと云ふ半面には、そんな軽捷な働を要求する為事を為遂るのは困難だらうと疑はなくてはならぬと云ふことがあるからだ。刑事の役人共も大抵さう云ふ考方をするが、それは理性の歩んで行くべき正当な道筋でないのだ。僕なんぞは只真理を目掛けて、一直線に進んで行く。この場合に僕が君に対してしてゐる説明は、その非常な軽捷な体と、例の不思議な、鋭い、又は叫ぶやうな声とを連係させて考へて貰はうとするにあるのだ。あの証人共が区々《まち/\》な聞き取りやうをした、詞に組み立てられてゐなかつた声と連係させるのだね。」
これまで聞いた時、僕はドユパンの説明が、不確ながら、どうやらぼんやり分かり掛かつたやうな気がした。今少しで分かりさうになつて、まだ分からないと云ふ点に到着した。好く忘れた事を思ひ出さうとする時、誰にもそんな経験があるものだが、今少しで思ひ出されさうで、やはり思ひ出されないのだ。友達は語を継いだ。
「僕はあの窓の話をしてゐるうちに、窓を逃道として考へることを止めて、入口として考へることにした。併し僕は這入るにも出るにも、あの窓を使つたものだと考へてゐるから、それで差支へないのだ。そこであの室内の状況を思ひ出して見てくれ給へ。箪笥の抽斗《ひきだし》は引き出して、中が掻き廻してあつて、何か取つたものらしいが、まだ、跡に品物は沢山残つてゐたと云ふことだつたね。僕が考へると、これは随分不思議な、又馬鹿げた判断だ。跡に残つてゐたと云ふ衣類その外の品物が、抽斗にあつた品物の全部だつたかも知れないぢやないか。レスパネエ夫人と娘とは、世間と交際をした事もない。外へもめつたに出ない。さうして見ると衣類なんぞは沢山いらない筈だ。それに残つてゐる衣類は、その親子の女の身分としては極上等の衣類だとしなくてはならない。若し賊が衣類を取つたとすると、好い物を残して置く筈がない。又皆取らずに置く筈がない。その外金貨四千フランもそつくりあつたと云ふぢやないか。まさか金貨や上等の衣類を残して置いて、不断着を背負つて逃げはすまいぢやないか。然も残つてゐた金貨は夫人がミニオオ銀行から引き出して来た金の全額で、それが袋に入れたまゝ床の上にあつたのだ。警察のやつらは銀行の関係者の証言を土台にして、金を目当の殺人犯だと狙ひを付けてゐるらしいが、僕の説明をこゝまで聞いた以上は、君はそんな見当違ひの所に殺人犯の動機があらうなんぞと思はないことにして貰ひたい。世間には前の出来事と後の出来事となんの関係もない事が幾らもある。金を受け取つて、それからその受け取つた人が三日目に殺されたと云ふより、もつと関係がありさうで関係のない事が沢山ある。兎角練習の足りない人の思想は偶然と云ふ石に躓《つまづ》き易い。それは恐然《きようぜん》の法則、プロバビリチイの法則と云ふものを知らないからだ。あらゆる学科にあの法則で得た発明が沢山あるのだ。三日前に金を受け取つて殺されたとしても、その金が紛失してゐたなら、金と殺人犯との間に偶然以上の関係があるものとも見られよう。さう云ふ場合には殺人犯の動機を金に求めても好からう。併し今の場合で金を動機だとするには、その下手人を非常なぐづだとしなくてはならない。馬鹿だとしなくてはならない。さうしなくては動機と金とを一しよに擲《なげう》つたわけになるのだからね。」
「そこで我々は先づこれまで研究して得た重要な箇条をしつかり捕捉してゐる事とするのだね。即ち不思議な声と、それから非常な敏捷な体との二つだ。それからその外にはこれと云ふ動機が全然欠けてゐると云ふ事実をも忘れてはならない。そこで我々はあの殺された女達の創のことを考へて見よう。」
「一人の女は素手で絞め殺して、死骸を逆《さかさ》に煖炉の中にねぢ込んであつた。どうもこれは普通の殺し方ではないね。殊に死骸の隠し方が不思議だ。そんな風に死骸を煖炉の中にねぢ込むと云ふことは、どうも人間の所為としては受け取れない。如何に人の性を失つた極悪人のした事としても受け取れない。その上女の体を狭い所へねぢ込んで、それを引き出すのに数人の力を合せて、やつと引き出されるやうにしたには、不思議な力がなくてはならないのだね。」
「その外非常な力のある奴の為業《しわざ》だと云証拠がまだある。煖炉の縁の上にあつた髪の毛だね。白髪の毛が幾束も根こじに引き抜いてあつたのだ。仮令《たとへ》二十本か三十本でも人の髪の毛を一しよに頭から引き抜かうと云ふには、どれだけの力がいるか、考へて見給へ。君も僕といつしよにあの髪を見たのだからね。あの髪の根には頭の皮がちぎれて食つ付いてゐたつけね。何千本と云ふ髪の毛を一掴にして、皮の付いて来るやうに抜いた力は大したものではないか。それからお婆あさんの吭の切りやうだね。吭を切つたゞけなら好いが、頭が胴から切り放してあつた。然もそれが剃刀で遣つたらしいのだね。それだけだつて人間らしくない粗暴な為業だ。その外夫人の体の挫傷も下手人の力の非常に強い証拠になる。ドユマアと云ふ医者と、エチアンヌと云ふ助手とが、鈍い器で付けた創だと云つたが、如何にもその通りで、その鈍い器は、僕の考では、あの中庭に敷いてある敷石だ。警察の奴等がそこに気の付かなかつたのは、例の窓枠に気の付かなかつたのと同じわけだ。内から釘が插してあると云ふだけを見て、それから先は考へずに置くと云ふ流義だね。」
「これまで話した事と、その外室内がひどく荒してあつたと云ふ事とを考へ合せて見れば、次の事実が分かるのだ。非常に軽捷だと云ふ事、一人の力とは思はれない程の力があると云ふ事、人間らしくない粗暴な事をすると云ふ事、意味のない荒しやうをすると云ふ事、これを合せて見ると、残酷の中に人間離れのした異様な挙動があるのだ。そこへ誰の耳にも外国人らしく聞えて、詞としては聞き取られない声を考へ合せて見るのだね。そこで君はどう判断する。どう云ふ考が君には浮んで来る。」
ドユパンにこの問を出された時、己は骨に徹《こた》へるやうな気味悪さを感じた。そして云つた。
「気違だらうか。どこか近い所にある精神病院を脱け出した躁狂患者だらうか。」
「さうさ。君の判断も一部分から見れば無理ではない。併し躁狂の猛烈な発作の時だつて、そんな不思議な声は出さない。狂人だつてどこかの国の人間だから、どんなに切れ切れにどなつても、声が詞にはなつてゐる。そこで僕は君に見せるものがあるのだ。これを見給へ。気違だつて人間だから、こんな毛が生えてゐはしない。」かう云つて友達は手の平に載せた毛を見せた。「これはレスパネエ夫人が握り固めてゐた拳の中にあつた毛だよ。君はこれをなんの毛だと思ふ。」
己はいよ/\気味が悪くなつて云つた。「成程、それは不思議な毛だね。人間の毛ではないね。」
「さうさ。僕だつて人間の毛だと云つてはゐないぢやないか。併し僕の考を話すより前に、君にこの図が見て貰ひたい。これは僕があの時鉛筆で写して置いたのだ。証人共が紫色になつてゐる痕だと云つたり、ドユマアやエチアンヌが皮下出血の斑点だと云つたりした、あのレスパネエの娘の頸の指痕だよ。」かう云つて友達は卓の上にその紙を拡げた。「この痕で見ると、一掴にしつかり掴んだもので、指が少しもすべらなかつたことが分かる。一度掴んだ手は、娘さんが死んでしまふまで放さなかつたのだ。ところで君の右の手を拡げてこの指の痕に当てがつて見給へ。」
己は出来るだけ指の股を拡げて、図の上に当てがつて見たが、合はない。
「ところでまだ君のその手が今の場合に合はないだけでは、正碓な判断が出来ぬかも知れない。なぜと云ふにその紙は平な卓の上に拡げてある。人間の頸は円筒形になつてゐる。こゝに円い木の切がある。大抵大きさも人間の頸位だ。これにその紙を巻いて手を当てゝ見給へ。」
己は友達の云ふ通りにして、又手を当てゝ見たが、やはり合はない。この時己は云つた。
「どうもこれは人間の手ではないね。」
「よし。それならこゝにあるこの文章を読んで見給へ。」かう云つて友達の出したのは、キユヰエエの著書で、東印度諸島に産する、暗褐色の毛をした猩々《しやう/″\》の解剖学的記述である。初の方には体の大きい事、非常に軽捷で力の強い事、ひどく粗暴な事、好んで人真似をする事などが書いてあつて、それから体の解剖になつて、手の指の説明がある。己はそれを読んでしまつて云つた。
「成程、この手の指の説明は、君の取つた図に符合するね。どうも猩々より外にはこの図にあるやうな指痕を付けることは出来まい。それに君の取つて来たこの毛の褐色な色合もキユヰエエの書いてゐる通りだ。さうして見ると人殺をしたのは猩々であつたのだらう。併しまだ僕には十分飲み籠めないことがあるね。証人の聞いた声は二人以上で、中にフランス人がゐたと云ふのだからね。」
「成程、それは君の云ふ通りだ。君も覚えてゐるか知らないが、証人の中で大勢が聞き取つたフランス語の中に『畜生』と云ふ語があつた。あれを証人の一人が相手を叱るやうな調子だつたと云つてゐる。たしかモンタニと云ふ菓子商の申立だつたね。僕はあれに本づい
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