舟には酒肴《しゅこう》が出してあったが、一々どの舟へも、主人側のものを配ると云うような、細かい計画はしてなかったのか、世話を焼いて杯《さかずき》を侑《すす》めるものもない。こう云う時の習《ならい》として、最初は一同遠慮をして酒肴に手を出さずに、只|睨《にら》み合っていた。そのうち結城紬《ゆうきつむぎ》の単物《ひとえもの》に、縞絽《しまろ》の羽織を着た、五十恰好の赤ら顔の男が、「どうです、皆さん、切角出してあるものですから」と云って、杯を手に取ると、方方から手が出て、杯を取る。割箸《わりばし》を取る。盛んに飲食が始まった。しかし話はやはり時候の挨拶位のものである。「どうです。こう天気続きでは、米が出来ますでしょうなあ」「さようさ。又米が安過ぎて不景気と云うような事になるでしょう」「そいつあ※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》いませんぜ。鶴亀《つるかめ》鶴亀」こんな対話である。
 僕のいる所からは、すぐ前を漕いで行く舟の艫《とも》の方が見える。そこにはお酌が二人乗っている。傍《そば》に頭を五分刈にして、織地のままの繭紬《けんちゅう》の陰紋附《かげもんつき》に袴《はかま》を穿《は》いて、羽織を着ないでいる、能役者のような男がいて、何やら言ってお酌を揶揄《からか》うらしく、きゃっきゃと云わせている。
 舟は西河岸の方に倚《よ》って上《のぼ》って行くので、廐橋手前《うまやばしでまえ》までは、お蔵《くら》の水門の外を通る度《たび》に、さして来る潮に淀《よど》む水の面《おもて》に、藁《わら》やら、鉋屑《かんなくず》やら、傘《かさ》の骨やら、お丸のこわれたのやらが浮いていて、その間に何事にも頓着《とんちゃく》せぬと云う風をして、鴎《かもめ》が波に揺られていた。諏訪町河岸《すわちょうがし》のあたりから、舟が少し中流に出た。吾妻橋《あづまばし》の上には、人がだいぶ立ち止まって川を見卸していたが、その中に書生がいて、丁度僕の乗っている舟の通る時、大声に「馬鹿《ばか》」とどなった。
 舟の着いたのは、木母寺《もくぼじ》辺であったかと思う。生憎《あいにく》風がぱったり歇《や》んでいて、岸に生えている葦《あし》の葉が少しも動かない。向河岸の方を見ると、水蒸気に飽いた、灰色の空気が、橋場の人家の輪廓《りんかく》をぼかしていた。土手下から水際《みずぎわ》まで、狭い一本道の附いている処へ、かわるがわる舟を寄せて、先ず履物《はきもの》を陸《おか》へ揚げた。どの舟もどの舟も、載せられるだけ大勢の人を載せて来たので、お酌の小さい雪蹈《せった》なぞは見附かっても、客の多数の穿いて来た、世間並の駒下駄《こまげた》は、鑑定が容易に附かない。真面目な人が跣足《はだし》で下りて、あれかこれかと捜しているうちに、無頓着な人は好い加減なのを穿いて行く。中には横着《おうちゃく》で新しそうなのを選《よ》って穿く人もある。僕はしかたがないからなるべく跡まで待っていて、残った下駄を穿いたところが、歯の斜《ななめ》に踏み耗《へ》らされた、随分歩きにくい下駄であった。後に聞けば、飾磨屋が履物の間違った話を聞いて、客一同に新しい駒下駄を贈ったが、僕なんぞには不躾《ぶしつけ》だと云う遠慮から、この贈物をしなかったそうである。
 定めて最初に着いた舟に世話人がいて案内をしたのだろう。一艘の舟が附くと、その一艘の人が、下駄を捜したりなんかして、まだ行ってしまわないうちに、もう次の舟の人が上陸する。そして狭い道を土手へ上がって、土手の内の田圃《たんぼ》を、寺島村の誰やらの別荘をさして行く。その客の群は切れたり続いたりはするが、切れた時でも前の人の後影を後の人が見失うようなことはない。僕も歯の歪《ゆが》んだ下駄を引き摩《ず》りながら、田の畔《くろ》や生垣《いけがき》の間の道を歩いて、とうとう目的地に到着した。
 ここまで来る道で、幾らも見たような、小さい屋敷である。高い生垣を繞《めぐ》らして、冠木門《かぶきもん》が立ててある。それを這入《はい》ると、向うに煤《すす》けたような古家の玄関が見えているが、そこまで行く間が、左右を外囲《そとがこい》よりずっと低いかなめ垣で為切《しき》った道になっていて、長方形の花崗石《みかげいし》が飛び飛びに敷いてある。僕に背中を見せて歩いていた、偶然の先導者はもう無事に玄関近くまで行っている頃、門と、玄関との中程で、左側のかなめ垣がとぎれている間から、お酌が二人手を引き合って、「こわかったわねえ」と、首を縮めて※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》き合いながら出て来た。僕は「何があるのだい」と云ったが、二人は同時に僕の顔を不遠慮に見て、なんだ、知りもしない奴の癖にとでも云いたそうな、極く愛相のない表情をして、玄関の方へ行
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