ってしまった。僕はふいと馬鹿げた事を考えた。昔の名君は一顰《いっぴん》一笑を惜んだそうだが、こいつ等はもう只で笑わないだけの修行をしているなと思ったのである。そんな事を考えながら、格別今女の子のこわがった物の正体を確めたいと云う熱心もなく、垣のとぎれた所から、ちょっと横に這入って見た。
そこには少し引っ込んだ所に、不断は植木鉢《うえきばち》や箒《ほうき》でも入れてありそうな、小さい物置があった。もう物蔭は少し薄暗くなっていて、物置の奥がはっきり見えないのを、覗《のぞ》き込むようにして見ると、髪を長く垂れた、等身大の幽霊の首に白い着物を着せたのが、萱《かや》か何かを束ねて立てた上に覗かせてあった。その頃まで寄席《よせ》に出る怪談師が、明りを消してから、客の間を持ち廻って見せることになっていた、出来合の幽霊である。百物語のアヴァン・グウはこんな物かと、稍《やや》馬鹿にせられたような気がして、僕は引き返した。
玄関に上がる時に見ると、上がってすぐ突き当る三畳には、男が二人立って何か忙がしそうに※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]き合っていた。「どうしやがったのだなあ」「それだからおいらが蝋燭は舟で来る人なんぞに持せて来ては行けないと云ったのだ。差当り燭台《しょくだい》に立ててあるのしきゃないのだから」と云うような事を言っている。楽屋の方の世話も焼いている人達であろう。二人は僕の立っているのには構わずに、奥へ這入ってしまう。入り替って、一人の男が覗いて見て、黙って又引っ込んでしまう。
僕はどうしようかと思って、暫く立ち竦《すく》んでいたが、右の方の唐紙《からかみ》が明いている、その先きに人声がするので、その方へ行って見た。そこは十四畳ばかりの座敷で、南側は古風に刈り込んだ松の木があったり、雪見|燈籠《どうろう》があったり、泉水があったりする庭を見晴している。この座敷にもう二十人以上の客が詰め掛けている。やはり船宿や舟の中と同じ様に、余り話ははずんでいない。どの顔を見ても、物を期待しているとか、好奇心を持っているとか云うような、緊張した表情をしているものはない。
丁度僕が這入った時、入口に近い所にいる、髯《ひげ》の長い、紗《しゃ》の道行触《みちゆきぶり》を着た中爺《ちゅうじ》いさんが、「ひどい蚊《か》ですなあ」と云うと、隣の若い男が、「なに藪蚊《やぶか》ですから、明りを附ける頃にはいなくなってしまいます」と云うその声が耳馴れているので、顔を見れば、蔀《しとみ》君であった。蔀君も同時に僕の顔を見附けた。
「やあ。お出《いで》なさいましたか。まだ飾磨屋さんを御存じないのでしたね。一寸《ちょっと》御紹介をしましょう」
こう云って蔀君は先きに立って、「御免なさい、御免なさい」を繰り返しながら、平手で人を分けるようにして、入口と反対の側の、格子窓《こうしまど》のある方へ行く。僕は黙って跡に附いて行った。
蔀君のさして行く格子窓の下の所には、外の客と様子の変った男がいる。しかも随分込み合っている座敷なのに、その人の周囲は空席になっているので、僕は入口に立っていた時、もうそれが目に附いたのであった。年は三十位ででもあろうか。色の蒼《あお》い、長い顔で、髪は刈ってからだいぶ日が立っているらしい。地味な縞《しま》の、鈍い、薄青い色の勝った何やらの単物に袴を着けて、少し前屈《まえかが》みになって据わっている。徹夜をした人の目のように、軽い充血の痕《あと》の見えている目は、余り周囲の物を見ようともせずに、大抵|直前《すぐまえ》の方向を凝視している。この男の傍《そば》には、少し背後《うしろ》へ下がって、一人の女が附き添っている。これも支度が極《ごく》地味な好みで、その頃|流行《はや》った紋織お召の単物も、帯も、帯止も、ひたすら目立たないようにと心掛けているらしく、薄い鼠が根調をなしていて、二十《はたち》になるかならぬ女の装飾としては、殆《ほとん》ど異様に思われる程である。中肉中背で、可哀らしい円顔をしている。銀杏返《いちょうがえ》しに結って、体中で外にない赤い色をしている六分珠《ろくぶだま》の金釵《きんかん》を挿《さ》した、たっぷりある髪の、鬢《びん》のおくれ毛が、俯向《うつむ》いている片頬《かたほ》に掛かっている。好い女ではあるが、どこと云って鋭い、際立った線もなく、凄《すご》いような処もない。僕は一寸見た時から、この男の傍にこの女のいるのを、只何となく病人に看護婦が附いているように感じたのである。
蔀君が僕をこの男の前に連れて行って、僕の名を言うと、この男は僕を一寸見て、黙って丁寧に辞儀をしただけであった。蔀君はそこらにいた誰やらと話をし出したので、僕はひとり縁側の方へ出て、いつの間にか薄い雲の掛かった、暮方の空を見ながら、今見た飾磨屋
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