百物語
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)稍《やや》おぼろげ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|却《かえっ》て
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》を
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何か事情があって、川開きが暑中を過ぎた後に延びた年の当日であったかと思う。余程年も立っているので、記憶が稍《やや》おぼろげになってはいるが又|却《かえっ》てそれが為《た》めに、或る廉々《かどかど》がアクサンチュエエせられて、翳《かす》んだ、濁った、しかも強い色に彩《いろど》られて、古びた想像のしまってある、僕の脳髄の物置の隅《すみ》に転《ころ》がっている。
勿論《もちろん》生れて始ての事であったが、これから後も先《ま》ずそんな事は無さそうだから、生涯に只《ただ》一度の出来事に出くわしたのだと云って好かろう。それは僕が百物語の催しに行った事である。
小説に説明をしてはならないのだそうだが、自惚《うぬぼれ》は誰にもあるもので、この話でも万一ヨオロッパのどの国かの語《ことば》に翻訳せられて、世界の文学の仲間入をするような事があった時、余所《よそ》の読者に分からないだろうかと、作者は途方もない考を出して、行きなり説明を以《もっ》てこの小説を書きはじめる。百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭《ろうそく》を百本立てて置いて、一人が一つずつ化物《ばけもの》の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである。事によったら例のファキイルと云う奴《やつ》がアルラア・アルラアを唱えて、頭を掉《ふ》っているうちに、覿面《てきめん》に神を見るように、神経に刺戟《しげき》を加えて行って、一時幻視幻聴を起すに至るのではあるまいか。
僕をこの催しに誘い出したのは、写真を道楽にしている蔀《しとみ》君と云う人であった。いつも身綺麗《みぎれい》にしていて、衣類や持物に、その時々の流行を趁《お》っている。或時僕が脚本の試みをしているのを見てこんな事を言った。「どうもあなたのお書きになるものは少し勝手が違っています。ちょいちょい芝居を御覧になったら好《い》いでしょう」これは親切に言ってくれたのであるが、こっちが却ってその勝手を破壊しようと思っているのだとは、全く気が附いていなかったらしい。僕の試みは試みで終ってしまって、何等の成功をも見なかったが、後継者は段々勝手の違った物を出し出しして、芝居の面目が今ではだいぶ改まりそうになって来ている。つまり捩《ねじ》れた、時代を超絶したような考は持ってもいず、解せようともしなかったのが、蔀君の特色であったらしい。さ程深くもなかった交《まじわり》が絶えてから、もう久しくなっているが、僕はあの人の飽くまで穏健な、目前に提供せられる受用を、程好く享受していると云う風の生活を、今でも羨《うらや》ましく思っている。蔀君は下町の若旦那《わかだんな》の中で、最も聡明《そうめい》な一人であったと云って好《よ》かろう。
この蔀君が僕の内へ来たのは、川開きの前日の午過《ひるす》ぎであった。あすの川開きに、両国を跡《あと》に見て、川上へ上って、寺島で百物語の催しをしようと云うのだが、行って見ぬかと云う。主人は誰だ。案内もないに、行っても好いのかと、僕は問うた。「なに。例の飾磨屋《しかまや》さんが催すのです。だいぶ大勢の積りだし、不参の人もありそうだから、飛入をしても構わないのですが、それでは徳義上行かれぬなんぞと、あなたの事だから云うかも知れない。しかし二三日前に逢《あ》った時、あなたにはわたくしから話をして見て、来られるようなら、お連《つれ》申すかも知れないと、勝兵衛《しょうべえ》さんにことわってあります。わたくしが一しょに行くと好いが、外《ほか》へ廻って行かなくてはならないから、一足先きへ御免を蒙《こうむ》ります」との事であった。
時刻と集合の場所とを聞いて置いた僕は、丁度外に用事もないので、まあ、どんな事をするか行って見ようと云う位の好奇心を出して、約束の三時半頃に、柳橋の船宿へ行って見た。天気はまだ少し蒸暑いが、余り強くない南風が吹いていて、凌《しの》ぎ好かった。船宿は今は取り払われた河岸《かし》で、丁度|亀清《かめせい》の向側《むこうがわ》になっていた。多分増田屋であったかと思う。
こう云う日に目貫《めぬき》の位置にある船宿一軒を借切りにしたものと見えて、しかもその家は近所の雑沓《ざっとう》よりも雑沓している。階上階下とも、どの部屋にも客が一ぱい詰め掛けている。僕は人の案内するままに二階へ升《のぼ》っ
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