を懸けつらねたる間《ま》、いくつか過ぎて、楼上《ろうじょう》に引かれぬ。
ビュロオ伯は常の服とおぼしき黒の上衣《うわぎ》のいと寛《ひろ》きに着更《きが》へて、伯爵夫人とともにここにをり、かねて相識れる中なれば、大隊長と心よげに握手し、われをも引合はさせて、胸の底より出づるやうなる声にてみづから名告《なの》り、メエルハイムには「よくぞ来玉ひし、」と軽く会釈《えしゃく》しぬ。夫人は伯よりおいたりと見ゆるほどに起居《たちい》重けれど、こころの優しさ目《まみ》の色に出でたり。メエルハイムを傍《かたわら》へ呼びて、何やらむしばしささやくほどに、伯。「けふの疲《つかれ》さぞあらむ。まかりて憩《いこ》ひ玉へ。」と人して部屋へ誘《いざな》はせぬ。
われとメエルハイムとは一つ部屋にて東向なり。ムルデの河波は窓の直下《ました》のいしづゑを洗ひて、むかひの岸の草むらは緑まだあせず。そのうしろなる柏《かしわ》の林にゆふ靄《もや》かかれり。流《ながれ》めての方にて折れ、こなたの陸《くが》膝がしらの如く出でたるところに田舎家二、三軒ありて、真黒《まくろ》なる粉ひき車の輪|中空《なかぞら》に聳《そび》え、ゆん手
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