かく答へむとおもひし略《てだて》、胸にたたみたるままにてえもめぐらさず、唯《ただ》心のみ弱うなりてやみぬ。」
「固《もと》より父に向ひてはかへすこと葉知らぬ母に、わがこころ明《あか》して何にかせむ。されど貴族の子に生れたりとて、われも人なり。いまいましき門閥、血統、迷信の土くれと看破《みやぶ》りては、我胸の中に投入るべきところなし。いやしき恋にうき身|窶《やつ》さば、姫ごぜの恥ともならめど、この習慣《ならわし》の外《と》にいでむとするを誰か支ふべき。『カトリック』教の国には尼《あま》になる人ありといへど、ここ新教のザックセンにてはそれもえならず。そよや、かの羅馬教《ローマきょう》の寺にひとしく、礼知りてなさけ知らぬ宮の内こそわが冢穴《つかあな》なれ。」
「わが家もこの国にて聞ゆる族《うから》なるに、いま勢ある国務大臣ファブリイス伯とはかさなる好《よしみ》あり。この事おもてより願はばいと易《やす》からむとおもへど、それの叶《かな》はぬは父君の御心《みこころ》うごかしがたきゆゑのみならず。われ性《さが》として人とともに歎き、人とともに笑ひ、愛憎二つの目もて久しく見らるることを嫌へば、かかる
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