ず。ただ厭《いと》ふにはゆるは彼方《あなた》の親切にて、ふた親のゆるしし交際の表《おもて》、かひな借さるることもあれど、唯二人になりたるときは、家も園もゆくかたもなう鬱陶《いぶ》せく覚えて、こころともなく太き息せられても、かしら熱くなるまで忍びがたうなりぬ。何ゆゑと問ひたまふな。そを誰か知らむ。恋ふるも恋ふるゆゑに恋ふるとこそ聞け、嫌ふもまたさならむ。」
「あるとき父の機嫌|好《よ》きを覗得《うかがいえ》て、わがくるしさいひ出でむとせしに、気色《けしき》を見てなかば言はせず。『世に貴族と生れしものは、賤《しず》やまがつなどの如くわがままなる振舞、おもひもよらぬことなり。血の権の贄《にえ》は人の権なり。われ老《おい》たれど、人の情《なさけ》忘れたりなど、ゆめな思ひそ。向ひの壁に掛けたるわが母君の像《すがた》を見よ。心もあの貌《かおばせ》のやうに厳《いつく》しく、われにあだし心おこさせ玉はず、世のたのしみをば失ひぬれど、幾百年《いくももとせ》の間いやしき血|一滴《ひとしずく》まぜしことなき家の誉《ほまれ》はすくひぬ。』といつも軍人ぶりのこと葉つきあらあらしきに似ぬやさしさに、兼ねてといはむ
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