すたつきを得ざりければ、わが身の事いかにおもひとり玉ひけむ。されど我を煩悩《ぼんのう》の闇路《やみじ》よりすくひいで玉ひし君、心の中には片時《かたとき》も忘れ侍《はべ》らず。」
「近比《ちかごろ》日本の風俗書きしふみ一つ二つ買はせて読みしに、おん国にては親の結ぶ縁ありて、まことの愛知らぬ夫婦多しと、こなたの旅人のいやしむやうに記したるありしが、こはまだよくも考へぬ言《こと》にて、かかることはこの欧羅巴《ヨーロッパ》にもなからずやは。いひなづけするまでの交際《つきあい》久しく、かたみに心の底まで知りあふ甲斐《かい》は否《いな》とも諾《う》ともいはるる中にこそあらめ、貴族仲間にては早くより目上の人にきめられたる夫婦、こころ合はでも辞《いな》まむよしなきに、日々にあひ見て忌《い》むこころ飽《あ》くまで募《つの》りたる時、これに添はする習《ならい》さりとてはことわりなの世や。」
「メエルハイムはおん身が友なり。悪しといはば弁護もやしたまはむ。否、我とてもその直《すぐ》なる心を知り、貌《かたち》にくからぬを見る目なきにあらねど、年頃つきあひしすゑ、わが胸にうづみ火ほどのあたたまりも出来《いでこ》
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