計と慣熟した境遇とを脱離したやうな感じが、己の胸一ぱいになつてゐたので、自分が極めて奇怪な極めて愉快な目的に向つて往くのだと云ふことが、己には争ふべからざる事実のやうに思はれた。こんな我ながら不思議な期待の情のお蔭で、現在の心で観察すれば、尋常一般の物が皆異様の形相を呈するやうに見えた。今歩いてゐる、細かい粒の揃つた砂の敷いてある庭の小径も、一曲り曲つた向うには、意外な眺望が展開しはせぬかと疑はれた。円形に苅り込んである「あさまつげ」の木を見れば、そのこんもりした緑の中にも秘密が蔵してありはせぬかと疑はれた。
 かう云ふ心持で己は或る岩窟《いはむろ》の前に来た。入口は野生の葡萄が鎖してゐる。もう日は瑣《やゝ》西に傾いてゐるが、外は暑いから、常なら己は只涼しい蔭を尋ねて其中に這入つただらう。然るに此時入口を這入る己の心の臓は跳つた。この田舎めいた岩窟の中の迂回した道を歩いて行つたら、際限の無い不思議のある処、又事によつたら己の生涯の禍福が岐《わか》れる処に出はせぬかと思つたからだ。
 岩窟の中は涼しくて愉快であつた。湿つた石壁に凝《こ》つて滴《した》たる水が流れて二つの水盤に入る。寂しい
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