汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。
 此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長《へんしふちやう》に説きて、余を社の通信員となし、伯林《ベルリン》に留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。
 社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家《すみか》をもうつし、午餐《ひるげ》に往く食店《たべものみせ》をもかへたらんには、微《かすか》なる暮しは立つべし。兎角《とかう》思案する程に、心の誠を顕《あら》はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することゝなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。
 朝の※[#「口+加」、第3水準1−14−93]※[#「口+非」、第4水準2−4−8]《カツフエエ》果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所に赴《おもむ》き、あらゆる新聞を読み
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