の訛《なまり》をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字《あやまりじ》少なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎《うと》んぜんを恐れてなり。
 嗚呼、委《くはし》くこゝに写さんも要なけれど、余が彼を愛《め》づる心の俄《にはか》に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前に横《よこたは》りて、洵《まこと》に危急存亡の秋《とき》なるに、この行《おこなひ》ありしをあやしみ、又た誹《そし》る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我|数奇《さくき》を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢《びん》の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何《いか》にせむ。
 公使に約せし日も近づき、我|命《めい》はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、学成らずして
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