妨ぐればなり。
余とエリスとの交際は、この時までは余所目《よそめ》に見るより清白なりき。彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業《わざ》を教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリア」座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にて繋がれ、昼の温習、夜の舞台と緊《きび》しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦|奈何《いかに》ぞや。されば彼等の仲間にて、賤《いや》しき限りなる業に堕《お》ちぬは稀《まれ》なりとぞいふなる。エリスがこれを※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とに依りてなり。彼は幼き時より物読むことをば流石《さすが》に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識《あひし》る頃より、余が借しつる書を読みならひて、漸く趣味をも知り、言葉
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