ですが、其声がわたしの胸にこたへたのです。まあ、なんと云ふ声でせう。いかにも打ち明けたやうな、子供らしい、無邪気な、まあ、五月頃の山毛欅《ぶな》の木の緑の中で、鳥が歌ふやうな声なのですね。わたしが目を挙げて見ると、尼さんが二人前を通つてゐるのです。一人は若くて、一人は年を取つてゐます。年を取つた方はわたしの知つた顔です。色が蒼くて、太つて、眉毛が一本もなくつて、小さい、鋭い、茶いろな目をしてゐるのです。若い方は、それまでつひぞ見たことのなかつた顔です。なんとも云へない、可哀《かはい》らしい顔なのですね。ところがわたしがさう気が附いた時には、もう二人はわたしの掛けたベンチの傍《かたはら》を通り過ぎて、わたしに背を向けて歩いてゐます。実は、兄いさん、わたし今少しで口笛を吹く所でした。さうしたらわたしの方を振り返つて見る筈でしたからね。併しわたしは吹きませんでした。一体わたしはなんでも思つた事を、すぐに実行すると云ふ事はないのです。いつでも決断を段々に積み貯へて行くと云ふ風なのです。其代には時期が来ると、それが一頓《いつとん》に爆発します。」
「その若い女はどんな様子だつたのだい。」兄も問題
前へ 次へ
全15ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング