詩人的空想が手伝つてゐるのだらうね。己はさうありたいと思ふのだが。」
「いゝえ。大違です。なんなら内で先生の手紙を見せて上げませう。」
「でも、人間と猩々とが。」
「いいえ。さう大した懸隔はないのです。それよりかもつと。」
「それは褻涜《せつとく》と云ふものだ。」
「さうでせうか。わたしなんぞは敢て自ら其任に当つても好い積です。」
「もう馬鹿な事をよせよ。」
「でも、あなたはお分かりにならないか知れませんが、一体科学が。」
「もうよせ。己は其問題をさう敷衍《ふえん》して見たくはないのだ。」
「そんならよします。兎に角わたしはさう云ふ事を考へて、あの芝生の広場から最初に曲つた角の小家の辺《あたり》で、日なたぼつこりをしてゐました。もう尼さん達が幾組もわたしの前を通り過ぎました。併しわたしは只何やらはつきりしない、黒い物が、砂の上を音もせずにすべつて行つたとしか感ぜなかつたのです。すると突然或声が耳に入つて、わたしは沈思の中《うち》から醒覚しました。其|詞《ことば》は、『それからシリアのアンチオツフス王の所を出て、地中海の岸に沿うて、今一度』と云つたのです。何も其詞には変つた事はなかつたの
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