るのだった。」
私がこう云うと、今度はF君が驚く番になった。後に聞けば、或る西洋人に戒められて、小説と云うものを読まぬ君も、Wilhelm Meister や Geisterseher 位は知っていたので、私の詞を聞いて、白内障の手術を受けたように悟ったのだそうである。
この事があってから私は、F君の異性に対する言動に、細かに注意した。そして君がこの方面に於いて全く無経験であることを知った。君は衣食の闕乏《けつぼう》を憂えない。君は性慾を制している。君は尋常の徼幸者とは違う。君はとにかくえらいと、私は思った。そこで初め君との間に保留して置いた距離が次第に短縮するのを、私は妨げようとはしなかった。私の鑑識は或は錯《あやま》っていたかも知れない。しかし私は今でも君に欺かれたとは信ぜない。
――――――――――――
十二月になった。私が小倉に来てから六月目、F君が私の跡を追って来てから三月目である。私はフランス語の稽古を始めて、毎日夕食後に馬借町《ばしゃくまち》の宣教師の所へ通うことになった。
これが頗る私と君との交際の上に影響した。なぜかと云うに、君が尋ねてきても、私
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