で聞かせ給え」と、私は云った。
 F君は少し間の悪そうに、低い声で五六行読んだ。声は低いが発音は好い。すらすらと読むのを私は聞いていて、意味をはっきり聞き取ることが出来た。
「もう好いから、君その意味を言って聞かせ給え」と、私は云った。
 F君は殆ど術語のみから組み立ててある原文の意味を、苦もなく説き明かした。
 私は再び驚いた。F君は狂人どころでは無い。君の自信の大きいのは当然のことである。私は云った。
「それだけ読めれば、君と僕との間に、何の軒輊《けんち》すべき所も無いね。」
「なに。そんな事はありません。追々質問します」と、F君は云った。
 これでF君が漫《みだ》りに大言|荘語《そうご》したのでないと云う事だけはわかった。しかしそれ以外の事は、私のためには総て疑問である。私はこの疑問を徐々に解決しようと思った。只その中に急に知らなくてはならぬ事が一つある。それはF君の生活状態である。身の上である。
 私はこう云った。「それは君のドイツ語を研究する相談相手になれと云うことなら、僕はならないことはない。ところで君はどうして小倉で暮して行く積りだ。」こう云ったが、F君は黙っている。私はすぐに畳み掛けて露骨に云った。「君金があるのか。」
 F君は黙ってはいられなくなった。「金は東京から来る汽車賃に皆使ってしまったのです。国から取れば、多少取れないこともありませんが、目前の用には立ちません。当分あなたの所に置いて下さるわけには行きますまいか。」
 この詞《ことば》は私の評価に少からず影響した。F君のドイツ語の造詣《ぞうけい》は、初め狂人かとまで思った疑を打ち消して、大いに君を重くしたのに、この詞は又頗る君を軽くした。固《もと》より人間は貧乏だからと云って、その材能《さいのう》の評価を減ずることはない。しかしF君が現に一銭の貯《たくわえ》もなくて、私をたよって来たとすると、前に私を讃めたのが、買被りでなくて、世辞ではあるまいか、阿諛《あゆ》ではあるまいかと疑われる。修行しようと云う望《のぞみ》に、寄食しようと云う望が附帯しているとすると、F君の私を目ざして来た動機がだいぶ不純になってしまう。人間の行為に全く純粋な動機は殆ど無いとしても、F君の行為を催起した動機は、その不純の程度が稍《やや》甚《はなはだ》しくはあるまいかと疑われる。
 これまで私に従学したいと云って名告《な
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