いろ》の教師に贄《にえ》を執って見たが、今の立場から言えば、どの学校も、どの教師も、自分に満足を与えることが出来ない。ドイツ人にも汎《ひろ》く交際を求めて見たが、丁度日本人に日本の国語を系統的に知った人が少いと同じ事で、ドイツ人もドイツ語に精通してはいない。それから日本人の書いたドイツ文や、日本人のドイツ語から訳した国文を渉猟《しょうりょう》して見たが、どれもどれも誤謬《ごびゅう》だらけである。その中《うち》でF君は私が最も自由にドイツ文を書き、最も正確にドイツ文を訳すると云うことを発見した。しかし東京にいた時の私の生活はいかにも繁劇らしいので、接近しようとせずにいた。その私が小倉へ来た。そこで君はわざわざ東京から私の跡を追って来た。これから小倉にいて、私にドイツ語を学びたいと云うのである。
 これを聞いて私はF君の自信の大きいのに驚き、又私の買い被《かぶ》られていることの甚《はなはだ》しいのに驚いて、暫く君の顔を見て黙っていた。後に思えば気の毒であるが、この時は私の心中に、若《も》し狂人ではあるまいかと云う疑《うたがい》さえ萌《きざ》していた。
 それから私は取敢ずこんな返事をした。君は私を買い被っている。私はそんなにえらくはない。しかし私の事は姑《しばら》く措《お》くとして、君は果して東京で師事すべき人を求めることの出来ぬ程、ドイツ語に通じているか。失敬ながら私はそれを疑う。こう云いつつ、私は机の上にあった Wundt を取って、F君の前に出して云った。これは少し専門に偏《かたよ》った本で、単にドイツ語を試験するには適していぬが、若しそれでも好《い》いなら、そこで一ペエジ程読んで、その意味を私に話して聞かせて貰いたい。若し他の本が好いなら、小説もあり雑誌もあるから、その方にしようと云った。
 F君は私の手から本を受取って、題号を見た。そして「心理学ですね」と云った。
「そうだ。君それが読めるか。」
「読めないことはありますまい。この本の事は聞いていただけで、まだ見たことはなかったのです。しかし私が Paedagogik を研究した時、どうしても心理学から這入らなくては駄目だと思って、少し心理学の本を覗《のぞ》いて見たことがあります。どこを読みましょう。」こう云って本を飜《ひるがえ》しているうちに、巻末に近い Die seele と云う一章が出た。「そこを少し読ん
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