のだという感じは所詮《しょせん》起らなかった。
道具を片附けてしまって起って行くのを、主人は見送って、覚えず微笑した。そして自分の冷澹《れいたん》なのを、やや訝《いぶか》るような心持になった。
この心持が妙に反抗的に、白分のどこかに異性に対する感じが潜んでいはしないかと捜すような心持を呼び起した。
大野の想像には、小倉で戦死者のために法会をした時の事が浮ぶ。本願寺の御連枝《ごれんし》が来られたので、式場の天幕の周囲《まわり》には、老若男女がぎしぎしと詰め掛けていた。大野が来賓席の椅子《いす》に掛けていると、段々見物人が押して来て、大野の膝《ひざ》の間の処へ、島田に結《い》った百姓の娘がしゃがんだ。お白いと髪の油との※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》がする。途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた緋鹿子《ひがのこ》を見る視官と、この髪や肌から発散する※[#「均−土」、第3水準1−14−75]を嗅ぐ嗅覚《きゅうかく》とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一|刹那《せつな》には大野も慥《たし》かに官能の奴隷であった
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