。大野はその時の事を思い出して、また覚えず微笑した。
 大野は今年四十になる。一度持った妻に別れたのは、久しい前の事である。独身で小倉に来ているのを、東京にいるお祖母《ば》あさんがひどく案じて、手紙をよこす度に娵《よめ》の詮議をしている。今宵《こよい》もそのお祖母あさんの手紙の来たのを、客があったので、封を切らずに机の上に載せて置いた。
 大野は昏《くら》くなったランプの心を捩《ね》じ上げて、その手紙の封を開いた。行儀の好《い》いお家流の細字を見れば、あの角縁《つのぶち》の目金を掛けたお祖母あさんの顔を見るようである。
 歳暮もおひおひ近く相成《あいなり》候《そうら》へば、御上京なされ候日の、指折る程に相成候を楽み居り候。前便に申上候井上の嬢さんに引き合せくれんと、谷田の奥さんが申され候ゆゑ、今日上野へまゐり、只今《ただいま》帰りてこの手紙をしたため候。私と谷田の奥さんとにて先に参りをり候処へ、富子さん母上と御一しよに来られ、車を降りて立ち居られ候高島田の姿を、初て見候時には、実に驚き申候。世の中にはこの様なる美しき人もあるものかと、不思議に思はれ候程に候。この人を見せたらば、いかに女
前へ 次へ
全22ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング