、隣の間へ引き下がってから、宮沢が寐られないでいると、壁を隔てて下女が溜息をしては寝返りをするのが聞える。暫く聞いていると、その溜息が段々大きくなって、苦痛のために呻吟《しんぎん》するというような風になったそうだ。そこで宮沢がつい、どうかしたのかいと云った。これだけ話してしまえば跡は本当に端折るよ。」
 富田は仰山な声をした。「おい。待ってくれ給え。ついでに跡も端折らないで話し給え。なかなか面白いから。」声を一倍大きくした。「おい。お竹さん。好く聞いて置くが好《い》いぜ。」
 始終にやにや笑っていた主人の大野が顔を蹙《しか》めた。
 戸川は話し続けた。「どうも富田君は交《まぜ》っ返すから困る。兎《と》に角《かく》それから下女が下女でなくなった。宮沢は直ぐに後悔した。職務が職務なのだから、発覚しては一大事だと思ったということは、僕にも察せられる。ところが、下女は今まで包《つつ》ましくしていたのが、次第にお化粧をする、派手な着物を着る。なんとなく人の目に立つ。宮沢は気が気でない。とうとう下女の親|許《もと》へ出掛けて行って、いずれ妻にするからと云って、一旦《いったん》引き取らせて手当を遣っていた。そのうちにどうかしようと思ったが、親許が真面目《まじめ》なので、どうすることも出来ない。宮沢は随分窮してはいたのだが、ひと算段をしてでも金で手を切ろうとした。しかし親許では極まった手当の外《ほか》のものはどうしても取らない。それが心《しん》から欲しくないのだから、手が附けられない。とうとうその下女を妻にして、今でもそのままになっている。今は東京で立派にしているのだが、なんにしろ教育の無い女の事だから、宮沢は何かに附けて困っているよ。」
 富田は意地きたなげに、酒をちびちび飲みながら冷かした。「もうおしまいか。竜頭蛇尾だね。そんな話なら、誉めなけりゃあ好かった。」

       四

 この時戸口で、足踏をして足駄の歯に附いた雪を落すような音がする。主人の飼っている Jean《ジャン》 という大犬が吠えそうにして廃《よ》して、鼻をくんくんと鳴らす。竹が障子を開けて何か言う声がする。
 間もなく香染《こうぞめ》の衣を着た坊さんが、鬚《ひげ》の二分程延びた顔をして這入《はい》って来た。皆の顔を見て会釈して、「遅くなりまして甚《はなは》だ」と云いながら、畳んだ坐具を右の脇《わき》に置いて、戸川と富田との間の処に据わった。
 寧国寺《ねいこくじ》さんという曹洞宗《そうとうしゅう》の坊さんなのである。金田町の鉄道線路に近い処に、長い間廃寺のようになっていた寧国寺という寺がある。檀家《だんか》であった元小倉藩の士族が大方|豊津《とよつ》へ遷《かえ》ってしまったので、廃寺のようになったのであった。辻堂を大きくしたようなこの寺の本堂の壁に、新聞|反古《ほご》を張って、この坊さんが近頃住まっているのである。
 主人は嬉しそうな顔をして、下女を呼んで言い附けた。
「饂飩がまだあるなら、一杯熱くして寧国寺さんに上げないか。お寒いだろうから。」
 戸川は自分の手を翳していた火鉢を、寧国寺さんの前へ押し遣った。
 寧国寺さんはほとんど無間断《むげんだん》に微笑を湛《たた》えている、痩《や》せた顔を主人の方に向けて、こんな話をし出した。
「実は今朝|托鉢《たくはつ》に出ますと、竪《たて》町の小さい古本屋に、大智度論《たいちどろん》の立派な本が一山積み畳ねてあるのが、目に留まったのですな。どうもこんな本が端本《はほん》になっているのは不思議だと思いながら、こちらの方へ歩いて参って、錦《にしき》町の通を旦過橋《たんかばし》の方へ行く途中で、また古本屋の店を見ると、同じ大智度論が一山ここにも積み畳ねてある。その外|法苑珠林《ほうおんじゅりん》だの何だのと、色々あるのです。大智度論も二軒のを合せると全部になりそうなのですな。」
 主人は口を挟んだ。「それじゃあわざと端本にして分けて売ったのでしょう。」
「お察しの通りです。どこから出たということも大概分かっています。どうかすると調べたくなる事もある本ではあるし、端本にして置けば、反古にしてしまわれるのは極《き》まっていますから、いかにも惜しゅうございますので、東禅寺の和尚に話して買うて置いて貰うことにして来ました。跡に残っている本のうちには、何か御覧になるようなものもあろうかと思いましたので一寸《ちょっと》お知らせに参りました。」
「それは難有《ありがと》う。明日《あした》役所から帰る時にでも廻って見ましょう。さあ。饂飩が冷えます。」
 寧国寺さんは饂飩を食べるのである。暫くすると、竹が「お代りは」と云って出て来た。そしてお代りを持って来るのを待って、主人は竹を呼び留めた。
「少しこの辺《へん》を片附けて、お茶を入れて、馬関
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