独身
森鴎外
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)掠《かす》めて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今晩|何処《どこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》が
−−
壱
小倉の冬は冬という程の事はない。西北の海から長門の一角を掠《かす》めて、寒い風が吹いて来て、蜜柑《みかん》の木の枯葉を庭の砂の上に吹き落して、からからと音をさせて、庭のあちこちへ吹き遣《や》って、暫《しばら》くおもちゃにしていて、とうとう縁の下に吹き込んでしまう。そういう日が暮れると、どこの家でも宵のうちから戸を締めてしまう。
外はいつか雪になる。おりおり足を刻んで駈けて通る伝便《でんびん》の鈴の音がする。
伝便と云っても余所《よそ》のものには分かるまい。これは東京に輸入せられないうちに、小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗の一つである。常磐橋《ときわばし》の袂《たもと》に円い柱が立っている。これに広告を貼《は》り附けるのである。赤や青や黄な紙に、大きい文字だの、あらい筆使いの画だのを書いて、新らしく開《あ》けた店の広告、それから芝居見せものなどの興行の広告をするのである。勿論柱はただ一本だけであって、これに張るのと、大門町の石垣に張る位より外《ほか》に、広告の必要はない土地なのだから、印刷したものより書いたものの方が多い。画だっても、巴里《パリ》の町で見る affiche《アフィッシュ》 のように気の利いたのはない。しかし兎《と》に角《かく》広告柱があるだけはえらい。これが一つ。
今一つが伝便なのである。Heinrich《ハインリヒ》 von《フォン》 Stephan《ステファン》 が警察国に生れて、巧に郵便の網を天下に布《し》いてから、手紙の往復に不便はないはずではあるが、それは日を以て算し月を以て算する用弁の事である。一日の間の時を以て算する用弁を達するには、郵便は間に合わない。Rendez《ランデ》−vous《ヴウ》 をしたって、明日《あす》何処《どこ》で逢《あ》おうなら、郵便で用が足る。しかし性急な変で、今晩|何処《どこ》で逢《あ》おうとなっては、郵便は駄目である。そんな時に電報を打つ人もあるかも知れない。これは少し牛刀鶏を割《さ》く嫌《きらい》がある。その上|厳《いか》めしい配達の為方《しかた》が殺風景である。そういう時には走使《はしりつかい》が欲しいに違ない。会杜の徽章《きしょう》の附いた帽を被《かぶ》って、辻々《つじつじ》に立っていて、手紙を市内へ届けることでも、途中で買って邪魔になるものを自宅へ持って帰らせる事でも、何でも受け合うのが伝便である。手紙や品物と引換に、会社の印の据《す》わっている紙切をくれる。存外間違はないのである。小倉で伝便と云っているのが、この走使である。
伝便の講釈がつい長くなった。小倉の雪の夜に、戸の外の静かな時、その伝便の鈴の音がちりん、ちりん、ちりん、ちりんと急調に聞えるのである。
それから優しい女の声で「かりかあかりか、どっこいさのさ」と、節を附けて呼んで通るのが聞える。植物採集に持って行くような、ブリキの入物に花櫚糖《かりんとう》を入れて肩に掛けて、小提灯《こぢょうちん》を持って売って歩くのである。
伝便や花櫚糖売は、いつの時侯にも来るのであるが、夏は辻占《つじうら》売なんぞの方が耳に附いて、伝便の鈴の音、花櫚糖売の女の声は気に留まらないのである。
こんな晩には置炬燵《おきごたつ》をする人もあろう。しかし実はそれ程寒くはない。
翌朝|手水鉢《ちょうずばち》に氷が張っている。この氷が二日より長く続いて張ることは先ず少い。遅くも三日目には風が変る。雪も氷も融《と》けてしまうのである。
弐
小倉の雪の夜の事であった。
新魚町《しんうおのまち》の大野|豊《ゆたか》の家に二人の客が落ち合った。一人は裁判所長の戸川という胡麻塩頭《ごましおあたま》の男である。一人は富田という市病院長で、東京大学を卒業してから、この土地へ来て洋行の費用を貯《たくわ》えているのである。費用も大概出来たので、近いうちに北川という若い医学士に跡を譲って、出発すると云っている。富田院長も四十は越しているが、まだ五分刈頭に白い筋も交《まじ》らない。酒|好《ずき》だということが一寸《ちょっと》見ても知れる、太った赭顔《あからがお》の男である。
極《ごく》澹泊《たんぱく》な独身生活をしている主人は、下女の竹に饂飩《うどん》の玉を買って来させて、台所で煮させて、二人に酒を出した。この家では茶を煮る
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング