の羊羹《ようかん》のあったのを切って来い。おい。富田君の処の徳利は片附けてはいけない。」
「いや。これを持って行かれては大変。」富田は鰕《えび》のようになった手で徳利を押えた。そして主人にこう云った。
「一体御主人の博聞強記は好《い》いが、科学を遣っているくせに仏法の本なんかを読むのは分からないて。仏法の本は坊様が読めば好いではないか。」
寧国寺さんは饂飩をゆっくり食べながら、顔には相変らず微笑を湛えている。
主人がこう云った。「君がそう思うのも無理はない。医書なんぞは、医者でないものが読むと、役には立たないで害になることもある。しかし仏法の本は違うよ。」
「どうか知らん。独身でいるのさえ変なのに、お負《まけ》に三宝に帰依《きえ》していると来るから、溜まらない。」
「また独身攻撃を遣り出すね。僕なんぞの考では、そう云う君だってやっぱり三宝に帰依しているよ。」
「こう見えても、僕なんかは三宝とは何と何だか知らないのだ。」
「知らないでも帰依している。」
「そんな堅白異同《けんぱくいどう》の弁を試みたっていけない。」
主人は笑談《じょうだん》のような、真面目《まじめ》のような、不得要領な顔をしてこんな事を言った。
「そうでないよ。君は科学科学と云っているだろう。あれも法なのだ。君達の仲間で崇拝している大先生があるだろう。Authoritaeten《アウトリテエテン》 だね。あれは皆仏なのだ。そして君達は皆僧なのだ。それからどうかすると先生を退治しようとするねえ。Authoritaeten《アウトリテエテン》−Stuermerei《スチュルメライ》 というのだね。あれは仏を呵《か》し祖を罵《ののし》るのだね。」
寧国寺さんは羊羹を食べて茶を喫《の》みながら、相変わらず微笑している。
五
富田は目を据えて主人を見た。
「またお講釈だ。ちょいと話をしている間にでも、おや、また教えられたなと思う。あれが苦痛だね。」一寸《ちょっと》顔を蹙《しか》めて話し続けた。
「なるほど酒は御馳走《ごちそう》になる。しかしお肴《さかな》が饂飩と来ては閉口する。お負にお講釈まで聞せられては溜まらない。」
主人はにやにや笑っている。「一体仏法なぞを攻撃しはじめたのは誰《たれ》だろう。」
「いや。説法さえ廃《よ》して貰われれば、僕も謗法《ぼうほう》はしない。だがね、君、独身生活を攻撃することは廃さないよ。箕村《みのむら》の処なんぞへ行くと、お肴が違う。お梅さんが床の間の前に据わって、富田に馳走をせいと儼然《げんぜん》として御託宣があるのだ。そうすると山海の美味が前に並ぶのだ。」
「分からないね。箕村というのは誰だい。それにお梅さんという人はどうしてそんなに息張《いば》っているのだい。」
「そりゃ息張っていますとも。床の間の前へ行って据わると、それ、御託宣だと云うので、箕村は遥か下がって平伏するのだ。」
「箕村というのは誰だい。」
「箕村ですか。あの長浜へ出る処に小児科病院を開いている男です。前の細君が病気で亡くなって忌中でいると、ある日大きな鯛《たい》を持って来て置いて行ったものがあったそうだ。箕村がひどく驚いて、近所を聞き廻ったり何かして騒ぐと、その時はまだ女中でいたお梅さんが平気で、これはお稲荷《いなり》様《さま》の下さった鯛だと云って、直ぐに料理をして、否唯《いやおう》なしに箕村に食わせたそうだ。それが不思議の始で、おりおり稲荷の託宣がある。梅と婚礼をせいと云う託宣なんぞも、やっぱりお梅さんが言い渡して置いて、箕村が婚礼の支度をすると、お梅さんは驚いた顔をして、お娵《よめ》さんはどちらからお出《いで》なさいますと云ったそうだ。僕は神慮に称《かな》っていると見えて、富田に馳走をせいと云う託宣があるのだ。」
「怪しい女だね」と戸川が嘴《くちばし》を容《い》れた。
「なに。御馳走になるから云うのではないが、なかなか好《い》い細君だよ。入院している子供は皆|懐《なつ》いている。好く世話をして遣《や》るそうだ。ただおりおり御託宣があるのだ。」
寧国寺さんは、主人と顔を見合せて、不断の微笑を浮べて聞いていたが、「お休なさい」と云って、ついと起った。見送りに立つ暇《いとま》もない。
この坊さんはいつでも飄然《ひょうぜん》として来て飄然として去るのである。
風の音がひゅうと云う。竹が薬缶《やかん》を持って、急須《きゅうす》に湯を差しに来て、「上はすっかり晴れました」と云った。
「もうお互に帰ろうじゃないか」と戸川が云った。
富田は幅の広い顔に幅の広い笑を見せた。「ところが、まだなかなか帰られないよ。独身生活を berufsmaessig《ベルウフスメエシヒ》 に遣っている先生の退却した迹《あと》で、最後の突撃を加えなけりゃあならない
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