からな。箕村だってそうだ。僕は何故《なにゆえ》にお稲荷さんが、特に女中をしていたお梅さんを抜擢《ばってき》したかということまで、神慮に立ち入って究めることは敢《あえ》てしない。しかし兎に角第二の細君が直ぐに出来たのは、箕村のために幸福であった。箕村は一日も不自由をしない。箕村のお客たる僕なんぞも不自由をしない。主人が幸福なら、客も幸福だ。」
主人の無頓着《むとんじゃく》らしい顔には、富田がいくら管《くだ》を巻いてもやはり微笑の影が消えない。
戸川は主人に目食《めく》わせをした。「いや。大変遅くなった。もうお暇《いとま》をします。」
そして起ちそうにして起たずに、頻《しき》りに富田を促すのである。「さあ。君も行こうじゃないか。もう分かっているよ。分かっているよ。」
戸川はとうとう引き摩《ず》るようにして富田を連れ出した。
富田は少しよろけながら玄関へ出て、大声にどなっている。「おい。お竹さん。もう一本熱いのを貰うはずだが、こん度の晩まで預けて置くよ。」
主人は送りに出て、戸川に囁《ささや》いた。「車を呼びに遣ろうか。」
「なに。どうせ同じ道ですから、僕が門まで一しょに行きます。さようなら。」
六
二人の客の帰った迹《あと》は急にひっそりした。旭町の太鼓はいつか止んでいて、今まで聞えなかった海の鳴る音がする。
竹が出て来て、酒や茶の道具を片附けている。主人の大野は、見るともなしにそれを見ていたが、ふいと竹を女として視ようとした。
背の低い、髪の薄い、左右の目の大さの少し違っている女である。初め奉公に来た時は痩せて蒼い顔をしていて、しおらしいような処があった。それがこの家に来てから段々肥えて、頬《ほ》っぺたが膨らんで来た。女振はよほど下がったのである。
宿元は小倉に近い処にあるが、兄が博多《はかた》で小料理屋をしている。飯焚《めしたき》なんぞをするより、酌でもしてくれれば、嫁入支度位は直ぐ出来るようにして遣ると、兄が勧めたので、暫く博多に行っていたが、そこへ来る客というのが、皆マドロスばかりで、ひどく乱暴なので、恐れて逃げて帰ったのだそうだ。裏表のない、主人のためを思って働く、珍らしい女中である。しかし女として視ることはむずかしい。これまで一度も女だと思ったことがなかったが、今女だと思おうとしても、それがほとんど不可能である。異性のものだという感じは所詮《しょせん》起らなかった。
道具を片附けてしまって起って行くのを、主人は見送って、覚えず微笑した。そして自分の冷澹《れいたん》なのを、やや訝《いぶか》るような心持になった。
この心持が妙に反抗的に、白分のどこかに異性に対する感じが潜んでいはしないかと捜すような心持を呼び起した。
大野の想像には、小倉で戦死者のために法会をした時の事が浮ぶ。本願寺の御連枝《ごれんし》が来られたので、式場の天幕の周囲《まわり》には、老若男女がぎしぎしと詰め掛けていた。大野が来賓席の椅子《いす》に掛けていると、段々見物人が押して来て、大野の膝《ひざ》の間の処へ、島田に結《い》った百姓の娘がしゃがんだ。お白いと髪の油との※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》がする。途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた緋鹿子《ひがのこ》を見る視官と、この髪や肌から発散する※[#「均−土」、第3水準1−14−75]を嗅ぐ嗅覚《きゅうかく》とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一|刹那《せつな》には大野も慥《たし》かに官能の奴隷であった。大野はその時の事を思い出して、また覚えず微笑した。
大野は今年四十になる。一度持った妻に別れたのは、久しい前の事である。独身で小倉に来ているのを、東京にいるお祖母《ば》あさんがひどく案じて、手紙をよこす度に娵《よめ》の詮議をしている。今宵《こよい》もそのお祖母あさんの手紙の来たのを、客があったので、封を切らずに机の上に載せて置いた。
大野は昏《くら》くなったランプの心を捩《ね》じ上げて、その手紙の封を開いた。行儀の好《い》いお家流の細字を見れば、あの角縁《つのぶち》の目金を掛けたお祖母あさんの顔を見るようである。
歳暮もおひおひ近く相成《あいなり》候《そうら》へば、御上京なされ候日の、指折る程に相成候を楽み居り候。前便に申上候井上の嬢さんに引き合せくれんと、谷田の奥さんが申され候ゆゑ、今日上野へまゐり、只今《ただいま》帰りてこの手紙をしたため候。私と谷田の奥さんとにて先に参りをり候処へ、富子さん母上と御一しよに来られ、車を降りて立ち居られ候高島田の姿を、初て見候時には、実に驚き申候。世の中にはこの様なる美しき人もあるものかと、不思議に思はれ候程に候。この人を見せたらば、いかに女
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